満蒙開拓団

殉難者拓魂 九州

 

長崎縣護國神社

長崎県長崎市

長崎県拓友連合会 旧満州国 拓魂

碑文

昭和初期五族共和国策遂行の先駆者として満洲の地に骨を埋めんと彼の地に渡りし長崎県出身開拓者2150有余名を

数うるも生死不明の者未にその数さだかならず

終戦後現地での無慙極りなき惨状を今こゝに語ずとも 満洲開拓史等の記録に雄弁に綴られ 実録筆舌に盡し難きもの

なり

今茲に生を得し者相語り関係多数の協賛を得て拓魂の碑を建立す

希は在天の御霊来りて之をうけ冥福あらんことを祈念す

昭和53年4月29日 長崎県拓友連合会

 

不二義勇隊開拓団  .

豊春義勇隊開拓団  .

日高義勇隊開拓団  .

山前義勇隊開拓団  .

鏡泊湖義勇隊開拓団 .

万宝義勇隊開拓団  .

八千穂ヶ丘義勇隊開拓団

新千穂義勇隊開拓  .

南英義勇隊開拓団  .

弥進義勇隊開拓団  .

圏泡義勇隊開拓団  .

広根義勇隊開拓団  .

伊和生義勇隊開拓団 .

当山中隊      .

豊里義勇隊開拓団  .

福田中隊      .

大通河開拓団    .

他長崎県出身開拓団 .

 

大分縣護國神社

大分県大分市

満蒙開拓義勇軍慰霊像

 

満蒙開拓義勇軍武田中隊慰霊碑

碑文

今ここに永遠にやすらめ我が友よ 祖国のために散りし英姿を

 

昭和18年 2月 大分県初の単獨郷土中隊として内原訓練所に入所          

昭和18年 5月 渡満、満州国四平省昌図訓練所にて原野開拓の農作業と軍事訓練にはげむ

昭和20年 8月 終戦と共に武装解除、収容所生活や食を得るための重労働の生活が続き、

発疹チフス等の流行、栄養失調等により死亡者続出す.

昭和21年10月 内地へ引揚げ、大分県庁にて解散す                 

 

極寒・酷暑の異国で倒れた左記の霊よ 安らかに眠られん事を祈る

昭和53年10月21日 武田中隊生存者一同

 

留魂(右)

碑文

この碑に若き義勇軍が満蒙開拓のため昭和13年より大東亜戦争終結に満蒙の土となった拓友の魂魄を留る

開拓の父 加藤 完治 詩

さし昇る朝日と共に鍬取りて 磨け益良夫 義勇軍

義勇軍歌

我等は若き義勇軍 祖国の為ぞ鍬取りて 万里涯なき野に立たむ いま開拓の意気高し いま開拓の意気高し

 

一 碑石 沖縄宮古島産貝殻化石 寄贈者 沖縄拓友会一同

一 立像建立 第4次 前田中隊 大分豊国拓友会   .

一 碑建立 大分豊国拓友会 高知拓友会 沖縄拓友会 

一 施工 宇佐市 森田建設(株) 代表者 森田政  

一 発起人 杵築市 大分豊国拓友会会長 田辺 信  

昭和49年4月吉日 建之

 

熊本縣護國神社

熊本県熊本市

満ソ殉難者慰霊碑

満蘇殉難碑除幕式 恭賦尊

悲愁二十有余年 魂魄依る無く恨み暗然 一億の同胞血涙凝る

遥かに北境を思うて 碑前に哭す

慰霊顕彰の辞

戦後二十五周年を期して満洲シベリア等で 非命に斃れた軍人軍属 開拓団員 満洲開拓青少年義勇隊 及び

あまねく官民同胞の御霊を慰めるため 昭和四十五年春有志相図りて本会を結成し広く熊本県民の賛同を得て

同年八月九日大慰霊祭を執行すると共に その事績を永く後世に伝えるためこの碑を建てた 希くは英魂の安

んせられんことを

昭和四十六年三月  満ソ殉難者慰霊顕彰会

 

満蒙開拓青少年義勇軍之碑

碑文

昭和十二年「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」が閣議で決定され 国策として満洲開拓の聖業に参加

せし者 当時十二・三歳より十九歳に至る純白なる青少年 全国で約九万名 本県から約三千名の多きを数えた

満洲の広野に第二の祖国を建設し 五族協和の先駆者たるべく旺盛なる開拓精神を発揮し 着々とその成果を収

めつつありし時 昭和二十年八月九日 ソ連軍の進攻に始まる戦争終結により そのすべてが消滅し去り 県出

身者三百数十名の拓友が 或いは戦場に 或いは病魔に斃れ 満ソの土と化した ここに生存者相集い 浄財を

以って満蒙開拓青少年義勇軍之碑を建立し 今は亡き拓友の霊石を納め御霊の永遠に安からんことを祈念すると

共に 満蒙開拓青少年義勇軍の偉業を後世に伝えんとするものである

昭和五十三年八月十三日  熊本県連拓友会

 

来民納骨堂

熊本県鹿本郡鹿央町

満州来民開拓団供養塔

履歴

団 名  満州国吉林省扶余県五家站来民開拓団

入植年  昭和十六年五月十七日 先遣隊十一名

遭難状況 昭和二十年八月十三日十三時三十分 県公署の命により東南七里 陶頼昭駅前協和学校へ引揚避難

せよとの事にて 直に各部落長へ連絡避難準備にかかり 十四日同本部に集結後出発の予定なるも 満人の知

る処となり各部落に掠奪が開始され出発の時間が送り 夕方各方面より匪襲あり避難出来かね 団員家族一致

協力応戦に務め 敵は昼夜新手を増員し青年斬込隊は全員戦死を遂げ 多勢に無勢 十七日各自決場に火を放

ち全員二七五名自決せり 唯一人宮本貞喜氏は自決報告の責をはたされ 又本部の命により全員の自決を見届

け 十九日陶頼昭■関東軍に報告後黒川開拓団へ到り 三益昭駅と連絡し団員除隊者の遭難防止に務め 昭和

二十一年八月三十一日内地引揚報告せり

三十周年記念供養塔改築  昭和五十年八月17日完工

後援 熊本県 鹿央町 旧来民開拓団遺族会一同

 

鹿児島縣護國神社

鹿児島県鹿児島市

拓魂

碑文

昭和12年を契機として、五族共和、王道楽土建設と云う当時の国策の旗印のもとに、満蒙開拓、鍬の戦士、として

この鹿児島県からも15、6才の少年達が続々と、歓呼の声に送られて満蒙(現在の中国・東北地方)の大陸に勇飛

して往った。 その数、志友を含め実に6千余名もあった。新天地での開拓生活の途上、我が志を果たさず次々と病

魔に倒れ又敗戦によって、リュック一つを頼りに我が子を抱きしめ、銃撃の間をくぐりぬけて我に還ってみれば、主人

や妻の姿は見えず既に愛児も愛児も息絶えていた。 悲惨その極に達した。この予期せざる祖国の敗戦により、その

理想も亦楽土も烏有に帰し、一大悲劇裡にその幕が閉じられた。

あれから既に30余年、今日に於ける我が国の現状を見るとき、この平和と発展の礎として散華して逝った、数多くの

開拓戦士の存在と多大な貢献とを、瞬時も忘れてはならない。ここに満蒙開拓の国策に殉じた鹿児島県出身の、満

蒙開拓青少年義勇軍を始め同志関係者の、御霊を祀り永遠に拓友、同志の遺徳を顕彰し後世にこの偉業を知らし

めるため、拓魂之碑の建立実現を図った。

願わくば我等の眞意を諒とせられ、嗚呼 我が同志の諸霊よ、安らかに眠り給え。

昭和52年10月 鹿児島県満蒙開拓之碑建立委員会

 

鹿児島県送出義勇隊 隊名

連桂義勇隊開拓団     昭和13年 4月渡満

油田中隊         昭和13年 4月渡満

和気中隊         昭和13年 6月渡満

内中隊           昭和13年 6月渡満

頭道義勇隊開拓団     昭和13年 6月渡満

三井義勇隊開拓団     昭和13年 7月渡満

双葉義勇隊開拓団     昭和13年 9月渡満

笹岡中隊         昭和13年 9月渡満

中山中隊         昭和13年 9月渡満

圏泡義勇隊開拓団     昭和13年11月渡満

寛溝義勇隊開拓団     昭和13年12月渡満

野上中隊         昭和14年 4月渡満

秋津島義勇隊開拓団    昭和14年 6月渡満

勝武義勇隊開拓団     昭和14年 9月渡満

大和鎮義勇隊開拓団    昭和14年12月渡満

三州義勇隊開拓団     昭和15年 7月渡満

大宮義勇開拓団      昭和16年 9月渡満

五花義勇隊開拓団     昭和17年 5月渡満

竹下中隊         昭和18年 9月渡満

宇慶中隊         昭和19年 6月渡満

篠原中隊         未渡満      

 

満蒙開拓団

更新日:2011/11/27