満蒙開拓団

殉難者拓魂 中国

 

古城山公園

岡山県笠岡市

浩良大島開拓団 開拓魂

碑文

とこしえに 月日はてらせ くにのため 散りにし拓友の みたまいしふみ

碑は大島分村大陸錬成隊岡山県報国農場を母体に朝陽屯(第五次) 竜爪(六) 七虎力(七) 舒楽鎮(八)

柳樹河(九) 天理村並びに満蒙開拓青年義勇隊開拓田殉難二百数十柱の英霊を合祀するに始まる

第十次浩良大島開拓団(長島村末治) 昭和十六年正月 先遣隊渡満 入植地 三江省湯原県浩良河

昭和二十年八月 敗戦により現地引揚 流亡満一年 翌年八月帰国

昭和四十四年春四月建立 

 

満州逃避行地蔵尊

碑文

せめてもの たむけとしれや 石地蔵 あえなくちりし あはれをさなご

 

岡山縣護國神社

岡山県岡山市

満蒙開拓青少年義勇軍之碑

碑文

我等義勇軍は 天祖の宏謨を奉じ 心を一にして邁進し 身を満洲建國の聖業に捧げ 神明に誓って

天皇陛下の大御心に副ひ奉らんことを期す

この言葉に従って昭和13年より昭和20年にいたる8年の間に9萬人の少年達が五族協和王道楽土

建設の名のも とに満洲に渡っていった 今その事の是非についての論は置き昭和20年8月15日大

東亜戦争の終結によって飢 餓と悪疫の流行により阿鼻叫喚の巷と化した満洲に少年達は放置され幾多

の同志を失った

幸いにして一命を得て故郷に帰ったもの相語らい空しく逝った同志の上を思い三十余年を経て今ここ

に満蒙開拓青少年義勇軍の碑を建つ

厚生大臣 橋本龍太郎 書 1980年9月 義勇軍之碑建立委員会 建立

 

  渡満中隊名     渡満年月      現地訓練所名      渡満人員

内 中隊(混成)  昭和13年 6月   旧満洲国北安省鉄驪    140

池田中隊(混成)  昭和13年 8月   旧満洲国北安省嫩江    143

萩野中隊(混成)  昭和13年10月   旧満洲国東安省勃利     20

阿部中隊(混成)  昭和13年11月   旧満洲国北安省嫩江     72

研谷中隊(混成)  昭和13年12月   旧満洲国濱江省哈爾濱    36

佐藤中隊(混成)  昭和14年 2月   旧満洲国牡丹江省寧安    35

兵藤中隊(混成)  昭和14年 4月   旧満洲国北安省鉄驪     38

中沢中隊(混成)  昭和14年 6月   旧満洲国北安省鉄驪    105

間瀬中隊(混成)  昭和14年 9月   旧満洲国東安省勃利     37

高橋中隊(混成)  昭和15年 3月   旧満洲国濱江省哈爾濱    31

谷本中隊(混成)  昭和15年 6月   旧満洲国北安省嫩江     91

宮野中隊      昭和16年 7月   旧満洲国吉林省大石頭   245

西 中隊      昭和17年 4月   旧満洲国吉林省大石頭   238

近藤中隊      昭和18年 5月   旧満洲国北安省嫩江    250

村上中隊      昭和19年 5月   旧満洲国東安省勃利    227

赤木中隊      昭和20年 3月   旧満洲国北安省鉄驪    320

大久保中隊     昭和20年 5月   旧満洲国北安省鉄驪    210

藤森中隊      昭和20年 5月   旧満洲国東安省勃利    175

 

今高野山 龍華寺

広島県世羅郡世羅町

満州世羅屯追憶 開拓碑

碑文

満州国世羅村は国策に基き世羅郡に於いても郡出身開拓者による分村計画がたてられ 昭和十五年初春

梶谷明治郎氏を団長とする先遣団員百二十八名の入植により誕生した

その後団員家族の入植も暫時増加し五分屯に分かれて警備 建設 営農に努め 神社 寺院 学校 病院を.

建設し 其他酒造場等自給自足の体制を整え治安を改善し 現地民との融和協力を相埃って理想郷実現

は着々と進められた

然るに中途にして団長は応召 間もなく大戦は我国の敗戦裡に終り 団長も治安用務中に逝去 甚だし

き混乱に陥ったにも拘らず団員一致協力 約一ヶ年頑張ったが勢の赴くところ如何ともし難く 入植以

来六ヶ年の苦闘も空しく遂に昭和二十一年八月涙を飲んで現地を放棄し 着の身着のままの姿で十月二

十三日約四百名が博多港に引き揚げた

引揚後二十周年に当り今は亡き方々の霊を慰め在満当時を追憶して茲に碑を建つ

昭和四十一年十月二十五日建立

 

嗚呼拓魂

昭和十九年初春 国策と分村計画に基き満州開拓第二世羅村の建設希望に燃えた百三十名 勇躍決起

曠野の極寒酷暑に敢然と開拓の鍬を振るう

然るに昭和二十年八月建設半ばにして敗戦となり 痛恨望郷の思いも空しく九十柱は異国の丘に骨を

埋めた 嗚呼痛ましい哉 悲しい哉

九死に一生を得 帰還して現存する拓友遺族相図り ここに君の霊を偲んで碑を建つ

拓友よ安らかに眠りたまへ

昭和五十二年三月建立

 

表場碑

昭和十八年四月広島県立満州報国農場が満州国吉林省舒蘭県上金馬州に設置され 広島県下各地よ

り毎年百余名の青年男女の勤労奉仕隊員が之に参加し 食料増産と国策遂行のため遠く異郷の地に

青春の情熱を傾注した

然るに昭和二十年八月敗戦により農場使命の達成空しく帰国 その途次困苦の中に盟友二名を失う

参加隊員三百九十余名達が当時を追憶し 茲に碑を建て望郷痛恨の霊を慰める

昭和五十二年三月建立

 

備後護國神社

 広島県福山市

拓魂碑

碑文

茨の道を切り拓き さきだち進む雄々しさに 嵐の中に 燃ゆる火を 掲げて進む凛々しさに

命捧げし尊さよ

この碑は昭和十三年から昭和十九年の間 広島県より送出された満州開拓青少年義勇隊約五千人のうち

中国大陸に於て短い生涯を終えた六七七柱の霊を祀り 再びかかる事の起こらないため 民族融和と恒

久平 和を祈念して備後地区生還者によって建立されたものである

満州開拓の悲願に燃えて 勇躍決起した満州開拓青年義勇隊は 北満の広野において極寒酷暑と闘いな

がら敢然と開拓の鍬を振う

然るに 壮途半ばにして或る者は病魔に冒され 或る者は洗浄に赴き 終には敗戦という歴史的大惨事

に遭い  君の悲願は一瞬にして壊滅した拓友の多くは痛恨望郷の思いを込めて 異国の丘に骨を埋めた

嗚呼痛ましい哉

九死に一生を得て帰還した拓友相図り ここに碑を建て君の御霊を迎えて永遠に祀る

国策に殉じた君の開拓魂は 平和国家日本の礎石として永劫に光を放つであろう

昭和四十八年三月  元満州開拓青年義勇隊備後地区生還者一同

 

平和大通り

 広島県広島市西区

拓友よ眠れ

碑文

広島県送出 元満州開拓青年義勇隊の物故者をまつる

この碑は生還者と遺族並びに広島県 市町村各小中学校生その他の有志の協力によって建てられた

広島県から出た義勇隊員のうち諸君ら 八百六十一人は 満州の地で短い生涯を終った 一九四五年(昭和二十

年)敗戦によって激変する環境の中で 人々はさまざまな死を迎えたが 諸君の死ほど この時代の歴史に刻み

込まなければならぬ死は少ないだろう あの頃 青年というよりむしろ少年の幼さで親と別れ 彼の地の土にな

ろうとして 素朴に民族の融和を諸君は念じた そして残酷な死を迎えた それが日本人としての当然のさだめ

であったとしても 諸君のような若い身で そのさだめをもったことが僕らには悲しい

死んだ諸君 民族の融和は いま新しい時代の息吹をもってとなえられようとしている この時代に僕らは思う

 「生きるとは何かを創ること」だと 僕らは これから自分で自分を創り 再びかかることの起こらないために

民族融和の道を歩もうと思う

昭和三十五年三月二十日  広島県の生還者一同しるす

 

松江護國神社

島根県松江市

満蒙開拓青少年義勇軍島根県拓友会連合会 拓魂

碑文

われらは若き 義勇軍 祖国のためぞ 鍬りて 万里果てなき 野に挑まん いま開拓の 意気高し

義勇の歌

顧みれば 昭和12年 国の重要政策として 満蒙開拓青少年義勇軍が創設され 民族和の理想を実践し

王道楽土の建設の礎石たらんとした 爾来 本県から選出された少年千三百余名 希望に燃えて満蒙の曠野

に赴き 酷寒灼熱をしのぎ 祖国の安泰を願いながら 一意開拓の鍬を振ったのである 時に昭和20年8

月  突如祖国の敗戦により 雄図空しく悲惨な運命に殉じた拓友三百余柱 往時を偲べば想うも涙す

今年まさに33年に当り 生存者相はかり 緑深きこの聖域に雄魂を永遠に讃えて之を建立す 友よ安らか

に眠り給へ

昭和52年10月 満蒙開拓青少年義勇軍島根県拓友会連合会

 

山口縣護國神社

 山口県山口市

拓魂

碑文

我らは若き義勇軍 われらは若き義勇軍 祖国の為ぞ 鍬とりて 万里涯なき 野に立たむ

いま開拓の 意気高し いま開拓の 意気高し

昭和13年 満蒙開拓青少年義勇軍の制度ができ 満洲の地に青少年を送った

山口県で応募する者 二千四百六十九名 あらゆる困苦に耐え訓練をかさね 希望に燃えて開拓の鍬を

振った

昭和20年8月終戦により 開拓の夢はくだかれ 苦難は言語に絶した 異国に骨をうづめる者 三百

有余名

茲に生還する者相図り 碑を建て 往時の気概をしめすと共に 亡き拓友の 遺徳をしのび 永遠の平

和を祈る

山口県送出隊員

昭和13、14、15年混成中隊県出身隊員

昭和15年度 郷土中隊西尾中隊    .

昭和16年度 郷土中隊浴木中隊    .

昭和16年度 郷土中隊中島中隊    .

昭和17年度 郷土中隊清水中隊    .

昭和17年度 郷土中隊兼重中隊    .

昭和18年度 郷土中隊阿武中隊    .

昭和18年度 郷土中隊八木中隊    .

昭和19年度 郷土中隊徳田中隊    .

昭和49年11月17日  山口県満蒙開拓青少年義勇軍拓友会建之

 

岩国護國神社

 山口県岩国市

永平岩国開拓団 拓魂

碑文

大東亜戦酣となり日本の生命線満州へ大和民族五百万の大移動が国策として企てられ 岩国市も亦市を

母体 とする分村計画を樹立し 昭和十七年満州国竜江省洮南県永平村へ七十九戸二百三十四名が入植

営々開拓 の鍬を振いしも 昭和二十年八月終戦に伴い筆舌に尽せぬ悲惨な顛末となり 七十有余名の犠

牲者を出し 引 揚者も亦物心両面の痛手は図り知れぬものあり 茲に終戦二十五周年に当り拓魂碑を建

てこの冷厳な事実を伝 え 拓友の御霊を永遠に慰めんとす 合掌

昭和四十五年三月 吉辰  

 

南桑河内神社

 山口県岩国市

下金馬川開拓団 開拓碑

碑文

満州開拓は民族協和の理想を実現し日本民族の発展を図る世紀の大事業であった この国策に順応して

旧桑根村は経済更正の一還として分村による大陸移住を企画し 満州国吉林省蘭県金馬村を入植地と

定め 昭和14年より5年にわたり142名の団員と約310名の家族を送り出して下金馬川開拓団を

建設した

この間団員は一致協力あらゆる悪条件を克服し 不撓不屈の努力を重ねて着々と開拓の成果を挙げ理想

郷の実現を進めた しかるに昭和20年8月終戦により開拓建設の版図は一朝にして崩れ 祖国へ帰還

するまでの1年有余 団員は雲霞の如き土匪と戦い あるいはソ連軍中共軍国連軍の無法なる迫害を受

け 忍び難きを忍び 堪え難きを堪え 筆舌に尽くせぬ苦難を受けた

しかしながら団は負傷兵を含めた関東軍兵士を多数収容しながら 団長を中心に、一糸乱れぬ統制と秩

序を保ち よく生き抜き これ又苦難の旅2ヶ月を要し 10月末無一物の姿で祖国に引き揚げた

ここに引揚20周年を迎え在満当時を追憶し 今は亡き開拓物故者の霊を偲ぶため此の碑を建つ

昭和41年12月  元下金馬開拓団団長 藤村 景

 

満蒙開拓団

更新日:2013/10/13