満蒙開拓団

殉難者拓魂 東海

 

静岡縣護國神社

静岡県静岡市

あゝ拓魂

あゝ拓魂

民族の悲劇に散った 満洲開拓の霊やすかれと祈りをこめて護国の英霊を祀る神域に拓魂の碑を立つ

五族協和道義世界建設の理想のもとに永遠の平和を希がった君たちは 国家と運命を共にし国策に殉

じたのである かつて日本の生命線とまで叫ばれた赤い夕日の満洲に眠る君たちを憶うとき 雄図空しく

歴史の断層に斃れた非命に痛恨の涙はつきない 日本人として この前に ぬかずくとき 新たな民族の

使命を感じ君たちの遺志を無にすることなく自由と平和の道を拓くことを誓うものである 開拓精神は創造

発展の真髄 真理探究のである 君たちの永遠の生命を信じ冥福を祈る

昭和四十九年四月二十三日 静岡県知事 竹山祐太郎

 

拓魂碑

建立の由来

満洲開拓とは現在の中国東北地区に五族協和王道楽土世界創建の大理想のもとに生まれた満洲国に

国造りの基礎としてこの地に眠る広大ななる未墾の沃野に大量の移民送出が国策として推進された大

規模農業開発のことである

満洲建国より太平洋戦争の終結に至るまでの十有三年間全国から実に三十二万余人本県から開拓団

満洲開拓青少年義勇隊併せて六千五百二十余名の入植を見たが昭和二十年八月十五日祖国日本の

無條件降伏満洲国の崩壊により悲運の幕を閉じたのである

農は善なりの素朴な哲学に徹し聖業の名のもとに土の戦士として不撓不屈の開拓精神をもって村創りに

精進これ努めたのであるが あたらその血と汗と涙の成果は歴史の断層に難民と化し非命に斃れた者

約8万有余人

本県人も千六百七十余名に及び実に世界植民史上空前の惨憺たる終末を迎えたものである

時流れて二十八春秋日中国交正常化を契機に昭和四十八年九月合同慰霊祭並に総決起大会を県の

後援を得 駿府会館の於て挙行し大会決議によって拓魂碑を建立することになった

爾来相寄り回を重ね慎重協議の結果護国神社静霊奉賛会の厚志と県当局県下市町村の協賛助成を

賜わり一般多数の協賛浄財と会員の拠出金により本県送出の全物故者を奉祀いたし永く拓魂を顕彰し

併せて慰霊供養の誠を捧げ不滅の開拓精神を後世に伝え戦争なき真の平和の希いをこめて茲に拓魂

の建立を見たのである

昭和五十年四月二十日 拓魂碑建立委員会

 

上長尾地区

静岡県榛原郡中川根町

川根開拓団 拓魂

碑文

川根開拓団は郷土の経済復興と国策に応じて一九四二年(昭和十七年)四月以降 板谷壮吉団長外

一四五戸六九三名が 中国東北旧満州竜江省鎮東県套保村周家地区一万三千ヘクタールの広野に

移民 分村川根郷として五族協和の理想の下に食糧増産に挺身した また満蒙開拓青少年義勇隊へ

も当村からの応募者は二九名に達し 将来は分村に受入れを期していた 一九四五年八月太平洋戦

争の終結に臨み団は現地を去り 新京の地に於て一年有余飢寒の苦難に堪え 翌年九月雄心空しく

故山に還った その間の殉難者並びに関係物故者一八一名の鎮魂と この事実に基き日中両国の永

久平和を祈念して この碑を建てる

一九七五年秋分の日  拓魂碑建立委員会

 

観音寺

静岡県磐田郡磐田町

満州開拓礎霊之碑

満州開拓福田郷のいわれ

国策時流の要望に応え転業帰納開拓団発祥之地として昭和十五年八月満州福田郷開拓団を結成した

翌十六年二月十一日(紀元節)第十次竜山開拓団と命名 基幹先遣隊幹部とも三十名 竜江省鎮東

県二竜山に入植 村創り建設営農に力闘す

十七年九月省立竜山開拓女塾創設 母県より開拓花嫁修業の為第一期女塾生を迎え入れた 第一、

二、三と後続団員 家族 女塾生の入植を年毎に迎え入れて 団は日一日と成長発展 学校 病院

神社等公共施設と共に自給自足態勢も 増産加工施設の整備により漸く村らしき楽土化しつつ入植

五年目を迎えた 偶々大東亜戦争による破滅の憂き目に遭遇し 民族協和を目的第二の故郷となる

べき楽土は孤立無援の一塊の保塁と化し 血と汗の結晶である我が村を放棄 悲惨極まりし逃避行

軍は敗戦の翌日八月十六日暁に開始された 大和魂に開拓魂を打ち込んで築いた村創りの聖業も惨

めな結末 剰へ数多の尊き犠牲者を出して一ヵ年に亘る逃避生活を生き抜いて 二十一年秋祖国に

引き揚げた 生き残りの同志一同は今は亡き霊に眞心込めて供養し続けられる様にと 三十二年秋

ここに「開拓礎霊之碑」を建立した

本年九月 第二十三年忌合同慰霊祭執行に当り 碑の位置を最適の場所に移転安置し 同時にこの

建立の因縁趣旨を銘記して後世永く子々孫々にまで血脈同志の偉業を讃え 且又礎霊への供養が世

人大方の皆様によって永続されることを祈念しつつ 新たにこの記念碑を建立した

昭和四十二年九月吉日  竜山開拓団 竜山開拓女塾 生存者一同

 

龍山開拓団 龍山開拓女塾 物故者諸精霊供養塔

 

愛知縣護國神社

愛知県名古屋市中区

愛知県拓友連絡協議会 満洲開拓 義勇軍之碑

碑文

戦後30年曽て14、5歳の少年が国策のため はたまた己の人生を自ら拓くけなげなる意思のもと酷寒零下40度

の極北の地に入植せり。明治百年の歴史は、この満洲開拓の歴史を外にして語ることはできぬ。無慙なる敗戦後

の惨状は体験せし者のみの知るところなり。北満広野に骨をさらせし友 シベリヤの土と化せし友 敗戦の現地で

消息を絶ちたる友 県送出二千七百余名の中 生死不明者その数さだかならず

今茲に生を得たる者相語り護國神社の聖域に義勇軍之碑を建立し これら亡き友の霊を慰めんとす。天は語らず

人をして語らしむアジア大陸東北の地こそ古より民族興亡角逐の場たりしことは史実の示すところにして、これ我等

が身をもって感得せしことなり。民族の協和その彼方にこそ眞の平和もあり得るものと信ず。数千年の血と文化によ

って結ばれたアジアの盟友と苦しみをわかちアジアの天地に眞の平和を拓く礎とならんことを、この碑のもとに誓うも

のなり

昭和50年2月11日 愛知県拓友連絡協議会 其の外義勇軍関係者一同

 

.      赤石中隊  昭和13年 2月内原入所  昭和13年 4月渡満  寧安訓練所入所

.      高橋中隊  昭和13年 2月内原入所  昭和13年 4月渡満  鉄驪訓練所入所

.      中山中隊  昭和13年 3月内原入所  昭和13年 6月渡満  昌図訓練所入所

.      遠藤中隊  昭和13年 5月内原入所  昭和13年 7月渡満  ハルピン訓練所入所

.      斉院中隊  昭和13年 8月内原入所  昭和13年12月渡満  昌図訓練所入所

.      研谷中隊  昭和13年 9月内原入所  昭和13年12月渡満  ハルピン訓練所入所

.      勝間田中隊 昭和13年11月内原入所  昭和14年 3月渡満  鉄驪訓練所入所

.      野上中隊  昭和14年 2月内原入所  昭和14年 4月渡満  昌図訓練所入所

.      木場中隊  昭和14年 4月内原入所  昭和14年 6月渡満  ハルピン訓練所入所

.      崎園野中隊 昭和14年 6月内原入所  昭和14年 9月渡満  一面波訓練所入所

.      山本中隊  昭和14年 8月内原入所  昭和14年11月渡満  鉄驪訓練所入所

.      羽賀中隊  昭和14年10月内原入所  昭和15年 3月渡満  勃利訓練所入所

.      西村中隊  昭和14年12月内原入所  昭和15年 3月渡満  ハルピン訓練所入所

.      坂下中隊  昭和15年 2月内原入所  昭和15年 5月渡満  昌図訓練所入所

.      桧山中隊  昭和15年 3月内原入所  昭和15年 6月渡満  一面波訓練所入所

.      片桐中隊  昭和15年 6月内原入所  昭和15年10月渡満  鉄驪訓練所入所

.      村木中隊  昭和15年 9月内原入所  昭和16年 3月渡満  鉄驪訓練所入所

.      小野中隊  昭和15年11月内原入所  昭和16年 5月渡満  鉄驪訓練所入所

.      中島中隊  昭和16年 4月内原入所  昭和16年 6月渡満  嫩江訓練所入所

.      柴山中隊  昭和16年11月内原入所  昭和17年 3月渡満  寧安訓練所入所

.      砂長中隊  昭和17年 3月内原入所  昭和17年 4月渡満  孫呉訓練所入所

.      小林中隊  昭和18年 3月内原入所  昭和18年10月渡満  孫呉訓練所入所

.      野村中隊  昭和19年 2月内原入所  昭和19年 6月渡満  鉄驪訓練所入所

.      増田中隊  昭和20年 3月内原入所  昭和20年 8月終戦に依り解散

 

桜淵公園

愛知県新城市

第9次三合東三河開拓団 拓魂碑

碑文

昭和14年東三河地方を送出母体として愛知県唯一の国策開拓移民団が組織され 同年4月

先遣隊32名は岡崎追進農場及び満州東安省永安屯(第5次)開拓団にて約10ヶ月の訓練

を終え 翌15年2月11日龍江省甘南県太平山村三合屯に第9次三合東三河開拓団として

入植した 母村より推薦された幹部を中心に後続隊と共に開拓基本計画にもとづき村づくり

に血と汗の苦闘を続け 太平洋戦争終結時には団員も530余名となり活気に満ちた第2の

故郷としての基盤がきずかれたのであった 然るに敗戦により我々の夢も希望も一瞬にして

消え去り内地引揚までの一年有余 銃弾に或は病魔に倒れ 悲しくも開拓の犠牲となり物故

せられた同志は200有余名 国策遂行の礎となり尊い生命を捧げられた無き友を偲びつつ

 その霊を慰むると共に開拓魂を永遠に記念し茲に拓魂碑を建立す

昭和46年5月20日  拓魂碑建立委員会

 

奥伊勢さくら公園

三重県多気郡大台町

三重県満州開拓殉難者慰霊碑 拓魂

碑文

昭和七年、当時の満州に新生独立国が誕生し、爾来わが国とは兄弟国としての友好関係の下、

東亜共栄、民族協和を標榜し、王道楽土の建設を理想として、たくましい建国の槌音をひびかせた

のであります。

満州の広野にねむる無限の資源を開発することは、ひとり満州国のためのみならず、わが国にと

っても、経済と国防の上から焦眉の急務とせられ、第二次世界大戦期を含む十余年の間に、農業

開拓者を中心として、実に三十万余の同胞が、この新生国に移住し、未来に大きな夢ををえがき

ながら、一意国策に身を挺したのであります。

しかるに昭和二十年八月、大戦の敗色すでに歴然たるなかに、突如ソ連の参戦をむかえ、北満の

開拓地は一夜にして悲惨な戦場と化し、あまたの同胞は祖国の再建と郷土の平和を念じつつ、うら

みをのんで、異郷にその生涯を閉じたのであります。

ここに痛恨かぎりない満州開拓の歴史に思いを致し、国策に殉じた本県出身一千三十余名の霊を

慰めるとともに、そのたくましい開拓精神が、世界平和をきりひらく原動力とならんことを祈念して、

永くこれを後世に伝えんとするものであります。

昭和四十四年七月  三重県満州開拓殉難者慰霊碑委員会

昭和四十四年九月十七日   一、一七五柱合祀

昭和五十三年四月二十三日    三三三柱合祀

 

萩原神社

三重県多気郡宮川村

荻原神社 …双龍神社(双龍開拓団の氏神)の御霊を合祀

由緒

明治40年、合祀令により荻原村に鎮座する81社を現在地に合祀。

昭和61年、秋季大祭にういて満州双龍開拓団の氏神神社だった双龍神社の御霊を、中国政府の計らい

により返還をうけ当社に合祀。

解説

三重県内で満蒙開拓民移出に大々的に取り組んだのは多気郡・度会郡で、山間部の村が多い両郡では

「分村」という形式で移民を多数送出。入植地は「神路郷」(浜江省巴彦県、現黒竜江省)と名付けられた。

昭和13年の県の計画では、五年間で両郡10ヶ村から移民1,500戸・青少年義勇軍150人を送出する

という内容だった。

終戦当時の開拓団149戸・547人のうち、翌年の引揚までの間に232人が殉難。

 

岐阜公園(日中友好公園)

岐阜県岐阜市

満蒙開拓青少年義勇隊 栗田中隊 満蒙開拓慰霊塔

碑文

昭和十六年三月美濃若人弐百余名茨城県内原訓練所に満洲開拓義勇隊栗田中隊を編成 同年六月渡満

浜江省一面波訓練所及び北安省鉄驪訓練所に多年開拓訓練に励む 十九年四月永住地北安省綏稜県南

長英屯に入植第4次岐阜義勇隊開拓団生まる 二十年八月太平洋戦争終戦 団は解散の悲運 幾多団員

は業ならず開拓の礎石と仆る 茲に生存者集ひ殉難同志の霊を慰め開拓の雄図を永く後世に伝う

昭和三十六年九月吉日 岐阜義勇隊開拓団生存者一同建立

 

追碑文

昭和の歴史に残る五十有余年前 昭和十六年国策としての大事業に僅か十四 五歳の少年が中国東北部

旧満州に 満蒙開拓青少年義勇軍として我ら栗田中隊二百有余名は 鋤 鍬 あるときは銃を手に王道楽土

の建設 五族共和の夢を胸に北満の地に渡りしが 図らずも昭和二十年敗戦に夢破れ九死に一生を得 裸

一貫で帰国 戦後の荒廃した社会のなかで郷土復興 自活の為と根性で恵まれた郷土社会を築き上げた 

不運にも異国の地に骨を埋めた拓友同志の霊を祀るため 昭和三十六年金華山中腹に慰霊塔を建立 慰

霊祭を行い青春を追憶慰霊し歓喜してきた今日 年老いて金華山での慰霊祭も至難となり 寂しさを痛感す

るとき岐阜公園に移設することとなった

この機を記念し拓友同志の名を刻み 後世に記す追碑を建立す 拓友生存者の念願を叶えた戦後半世紀

の記念すべき年である

兵戈無用  世界はひとつ

平成七年九月吉日 栗田会 拓友生存者一同

 

満蒙開拓義勇隊岐阜県中隊 拓友之碑

碑文

雄時大東亜戦争熾烈の半 昭和十八年錦秋我々満蒙開拓義勇隊岐阜県中隊は日本民族繁栄の一翼として

墳墓の地に袂別し勇躍渡海 爾来現地の酷寒酷暑と闘いつつ開拓に専念す 然るに図らんや戦争の終結に

遭遇しその夢と事業は遂に水泡に帰し 死亡或は雄図空しく生還し今日に至る

而して戦後二十星霜を閲したる現在と雖も 吾々愛国の至誠は不変にして母国の永遠の平和と郷土発展に

努力せんことを誓い 併せて義勇開拓精神の同志の魂の寄り処としてこの聖地を選び記念の碑を建立す

昭和四十年八月十五日 旧横山中隊 朋友会一同

 

満蒙開拓青少年義勇軍 田中中隊之碑 拓魂

碑文

岐阜県選出第七次満蒙開拓青少年義勇軍田中中隊の 生死をかけた中国におけるきびしい歩みを

青春の道程として永久にとどめる

ひぐらしを 聞きつつ滝の しぶきうく 拓魂の碑に 祈りささげり

碑のうらの 隊員氏名 たどりゆく 往時の姿 まぶたに浮かべて

昭和十九年三月 若冠十四才の少年我等二百三十二名は昿漠たる満蒙の原野に理想の開拓団を建設

すべく第七次岐阜県田中中隊を編成 その名満蒙開拓青少年義勇軍として茨城県内原訓練所にて二ケ

月間の基礎訓練を終え 同年五月勇躍渡満ハルピン訓練所に入所するや夏は熱砂の昿野に鍬振い冬

は厳寒の国境に警備の銃を執る

時折りしも大東亜戦争は益々危急を告げ 拓友百五十名は同二十年四月及び六月の再度にわたり 軍

命により戦時勤労挺身隊として奉天市満洲車輌株式会社に派遣され 鍬持つ手にハンマーを握り兵器増

産に努め残りし友は訓練所に在りて食糧増産に励む

忘れ得ぬ日昭和二十年八月十五日 戦局利あらず国破れ少年柘士の夢は悉く水泡に帰す 我等ここに

国の庇護なく同胞の愛の手薄く望郷の念日々に高まり 加えて酷寒零下三十度の冬季を迎う迫り来る寒

気と飢餓は恐るべき悪疫伝染病と相まってあたら若き命を次々と奪い 我が友四十一名は思いを遥かな

祖国に馳せ父母の名を呼びつつ遂に異国の土と化す

亡友の霊靖からんと願いながらも徒らに過ぎ去りし二十幾星霜今ここに生ある拓友相起ちて逝きし友の

冥福を祈りその拓魂を永遠に称えんとこの碑を建立す

昭和四十三年四月 田中中隊帰還者一同

 

郡上八幡城址

岐阜県郡上市

拓魂

噫開拓殉難の烈士

昭和七年開始の満州開拓の国策に応じ 郡上青年の海外発展は 開拓団 青少年義勇隊 開拓実習生

報国隊等 次第に激増し 遂には 満州開拓特別指導郡として 挙郡一体分村計画により 郡上村

山路郷 高鷲村 和良村 秀真 瑞穂 積翠 興和 西和良 東の十個開拓団 総数三千三百余士

夫々異郷万里の昿野辺境に 一家を挙げて挺身 よく百難を克服して 凍土を起し 黒土を耕し凌霜

不掕ナニクソ オカゲサマの郡上気魂に生き抜き全満屈指の模範村 民族協和の理想郷を生み育てる

に至った 然るに 昭和二十年八月思わざる祖国の敗戦により 血と汗の建設は一瞬にして崩壊し

ソ連軍の進撃 土民暴動の渦中に 凄惨極まる難民と化し 銃弾 疫病 飢餓酷寒に痛恨涙を呑んで 

続々と斃れゆく者千三百余柱

悲願空しく 夢破れたりとはいえ 生き残った私共が再び祖国の土を踏んだ

堪え難き世紀の苦難乗り越えし この力して村造りせむ(辻村徳和作)

私達を待つ第二の開拓 郷土開発の情熱にこそ君達は常に生き 拓魂一路 永遠に後続の同志を励ま

し続ける 茲に 同志相図り 無惨に散った先輩のみ後を慕いつつ万感を この碑にこめて不滅の業

蹟を讃え 諸共に 慈光の下 今後の精進を誓うものである

東へ帰る日をまたずして 赤い夕日と西へおちゆく(和田慈敬作)

拓魂は加藤完治 書

昭和四十三年七月  郡上満州開拓殉難者碑建設委員会

 

前島林地区

岐阜県郡上市

満州開拓義民 故村瀬金太郎碑

碑文

那北高畑和田彦ヱ門家の出身となる息子金太郎氏は 当村市島に在住中渡満 土地開拓中

死没せらる

昭和三十三年発祀  林組一堂

経緯

市島地区へ移り住んだ村瀬金太郎は妻子と平和に暮らし、近所の人には何かと世話になって

いた。国策で満州開拓の命令が下り市島地区からも誰かを出すようにと達しが来たが申し出

るものは一人も無かった。これを聞いた金太郎は世話になった市島地区の人々への恩返しの

気持ちも有り、一家で満州へ移り住んだが戦局は悪化し、金太郎一家は満州で帰らぬ人とな

った。市島地区の人々は「金太郎一家は自分たちの身代わりに死んだのだ」と悲しみ、この

碑を建てた。

 

坂下神社

岐阜県恵那郡坂下町

七星坂下村分村開拓団 招魂碑

碑文

満州国牡丹江省寧安縣七星に坂下分村の建設を志し 昭和十四年五月九日先遣隊の渡満以来

幾多の困難を克服し理想郷の建設に邁進せるも 戦局頓に悪化し昭和二十年八月十二日に至

り遂に営々六年に亘る功業を放棄して故国に引揚るの悲運に遭ふ

 殊に避難行に於ける惨苦は言語に絶し又更に新京奉天の越冬生活は飢寒に迫り病魔に冒され

異郷に骨を埋むる者二百五十六名に達す 正に国家再建の人柱と称すべく痛恨極まり無し

茲に碑を刻んで永く英霊を慰めんとし 萬斛の思ひを残しつつ現地を去りし日に因みて之を

建つ

坂下町長 吉村新六撰  昭和三十一年八月十二日  坂下町建立

 

こもれびの里

岐阜県加茂郡東白川村

満州開拓之碑

満州開拓者の訴え

昭和初期、我が国を襲った極度の経済不況を乗り切るため、時の政府はこの活路を中国大陸に

求め、昭和七年、現在の中国東北部に満州国を建国して、大量の日本国民の大陸移住を図った。

本村の公私経済も、長期化した農村恐慌の中にあって窮状を極め、増加する人口を養い切れず、

国策に従って「村経済更正計画」による自立再建計画を講ずることとなったが、この計画の中心

をなすものが、人減らしを目的とした満州国への集団移民であった。

北満の地に第二の東白川村をつくるという「分村計画」が、昭和十七年十一月二十日、村議会に

おいて可決され、翌十八年、先遣隊の入植によって、満州国北安省通北郡柳毛郷開拓団が発足し

たのであった。

前後して、壮志を抱いて満州開拓青少年義勇隊に参加する若者、他の開拓団に入植する者、そし

て分村計画にそって東柳毛郷へ送り込まれた隊員家族など、東白川村民の在満人口は、最盛期に

は三七〇人にも達し、春…大平原を埋めるお花畑に驚嘆し、夏…柳の枝下に流れる小川に釣りを

楽しみ、秋…沃野の恵みに感謝しつつ収穫にいそしみ、冬…吹きすさぶ雪の荒野に馬を走らせ、

王道楽土を夢みて、ひたすら開拓の鍬を奮ったのであった。

昭和十六年十二月七日、日本がアメリカに対して発した戦争の火ぶたは、やがて世界に及び、太

平洋戦争と呼ばれたが、中国各地でも熾烈な戦闘が繰返されるなか、昭和二十年八月十五日、日

本の敗戦によって終結をとげた。

この戦いの歴史的認識は、今日において侵略という評価が定着しつつあるとはいえ、人それぞれ

に思いはさまざまであろう。

しかし、彼の地へ赴いたわれわれ開拓農民にとっては、侵略の意図などさらに無く、ひたすらに

国と村の、そして自らの窮乏を救わんとする真情以外のなにものでもなかったのである。

しかるに、敗戦を境に、一夜にして敵地と化した広野の涯に捨て去られ、まさに集団棄民となっ

たわれわれは、泥水をすすり、抑留の憂き目に遭い、肉親に生き別れ、死に別れ、筆舌に尽くし

がたい苦難を越えて引揚げを強いられることになったが、それさえできずに故郷から数千キロ離

れた北辺の地に骨を埋めた者三十余名、今なお現地に残留する者一名、何をもってこれに報い得

るであろうか。

新しい歴史の重なりの向うに、古い歴史が遠くなることは止められないが、命を削った開拓農民

の苦難の事実が、省り見られることも少ないまま埋没することを憂い、再びこのような惨禍が繰

返されることのない、悠久の平和を願いつつ、この碑を残す。

平成六年八月六日  岐阜県加茂郡東白川村 満州開拓記念碑建立実行委員会

 

孝治水公園

岐阜県益田郡下呂町

中原地区忠魂碑

経緯

旧竹原村と旧中原村(現在の下呂市)の出身者が、当時の満州国北安省徳都県南和村(現中国黒龍

江省)に分村した「鳳凰開拓団」は、昭和15年に移民を始め終戦時は60世帯・279人の団

員がいた。

終戦直後に団員215人が集団自決、病死や引揚中に行方不明になった人もおり、帰国したのは

48人だけだった。

中原地区の忠魂碑には、これら満州の犠牲者77人が戦没者91人と共に祀られている。

 

円城寺

岐阜県高山市

満州開拓物故者之碑

碑文

東洋平和と日満両国の繁栄を希求し 朝日村において樹立したる満州開拓分村計画に共鳴し 昭和

十五年四月■■団長として先遣隊員三十名を間島省琿春県に入植したる■渓寺住職鈴木■■を始め

とし 以来毎年朝日村が中心となり小阪町久々野町その他各方面の同志■■■■昭和二十年迄に百

三十八戸六百人が入植 し新朝日村の建設も漸く完成せんとする折柄 昭和二十年八月大東亜戦争

が遂に終戦となった

爾来抑留生活を送ること一ヶ年 ソ連と中共軍の過酷な使役により過労と飢餓のため病魔に倒れる

者半数以上に遭い 生き残った団員は昭和二十一年十月涙と共に■■者の位牌を懐き満身創痍の痩

躯のまま祖国へ帰ったのである 茲に満州の礎石とならんことを共に決意したが 止むなく故郷に

其の更正の道を■■■んとする同友の志相諮り 朝日村を始め多数有志のご芳情を得て左記物故者

の慰霊碑を建設し 永くその英魂を弔わんとするものである

昭和三十年三月二十一日建設

 

満蒙開拓団

更新日:2012/12/16