満蒙開拓団

殉難者拓魂 東北

 

町民センター

岩手県東磐井郡藤沢町

偲塚

碑文

本藤沢町は かつて満蒙の大地に 新天地の創造を企て 鍬の戦士の名のもとに 勇躍諸君

を送出した 然るに台図らんや 事忠に反して 多くの殉職者を出すに至った

爾来茫々六十有余歳 募る鎮魂の思いに嘖まれ 万斛の涙を呑んで この碑を建立する

平成十七年浅春

説明

昭和15年、第九次開拓団に136名が参加、更に第十三次開拓団も加わり藤沢町から75

戸・250名が満州国北安省馬家店に移民したが、敗戦の混乱で100名の犠牲を出した。

 

秋田縣護国神社

秋田県秋田市

満蒙開拓青少年義勇軍慰霊碑

碑文

手塚中隊  北安省嫰江県   昭和十三年 四月

津村中隊  東安省林口県   昭和十三年 六月

大沼中隊  東安省林口県   昭和十三年十一月

松岡中隊  竜江省訥河県   昭和十三年十二月

黒沢中隊  綿州省黒山県   昭和十四年 四月

藤沢中隊  北安省綏稜県   昭和十四年十二月

峯 中隊  北安省嫰江県   昭和十四年 六月

寺本中隊  東安省密山県   昭和十五年 六月

坂下中隊  吉林省敦化県   昭和十五年 六月

寺田中隊  牡丹江省寧安県  昭和十六年 六月

柿崎中隊  竜江省訥河県   昭和十七年 七月

三浦中隊  吉林省敦化県   昭和十八年十一月

伐川中隊  北安省嫰江県   昭和十九年 五月

昭和五十三年八月十五日建立  満蒙青少年開拓義勇軍慰霊碑建立委員会

 

本荘城址公園

秋田県由利本荘市

第十次営城由利開拓団 満州開拓の碑

碑文

団員   秋田県由利郡三十一ヶ町村から二九一名渡満             .

現地出生者五七名、帰還者一九二名、死亡者一三八名、他一八名

所在地  元満州国牡丹江省寧安県沙蘭村                   .

渤海王国の首都「東京城」の西営城乎           .

(攻略)

 

桃源院

宮城県志田郡松山町

拓魂碑

碑文

満州開拓拓魂の碑は昭和九年から昭和二十年八月まで満州開拓団及び満蒙開拓青少年義勇隊

とした我が松山町より大陸に渡り犠牲者となり又戦後物故者拓友を合祀慰霊するもので 此

の拓友は国策に応じ一家を挙げて満州に移住し又青少年義勇隊は幼少の身を以って北満の地

にて訓練に励み新しい村造りと食糧増産に挺身したのである この開拓農民は建設途上半ば

に倒れた拓友又太平洋戦争が烈しくなるや応召して戦病死或は敗戦後ソ連軍によりシベリヤ

に抑留され満足な食事も与えられず寒さと飢の為に涙をのんで倒れた者 又現地に残された

老幼婦女子は昭和二十年八月十五日の敗戦となるや一朝にして難民となり酷寒と飢餓と発疹

チフスの病魔に斃れたことは痛恨愛惜の切なるものがある これ等の尊い犠牲となった拓友

の霊を慰めると共に其の事蹟を永く後世に伝える為に拓魂碑を建立するもので希わくは拓魂

安らかに眠り世界平和をと祖国の繁栄に御加護あらんことを

平成二年三月二十九日  発起人 角田一夫 尾形 道 井上 隆

 

瑞巌寺

宮城県宮城郡松島町

第七次安拝開拓団 拓魂

経歴

一 団名        第七次安拝開拓団                

二 入植年月日     昭和十三年二月                 

三 入植地       満州国北安省慶安県安拝屯            

四 出身地       本吉郡 一〇人  登米郡 四六人  遠田郡 四九人

           桃生郡 二八人  志田郡 十五人  黒川郡  七人

            その他  六人  合計 一六一人        

五 終戦時世帯数    団員 一六一戸  幹部   四戸        

六 家族構成数     約七四〇人                   

七 内帰還者数     約三一〇人                   

八 大東亜戦争犠牲者数 約四三〇人                   

 

満州開拓青年義勇隊 東寧訓練所第一中隊 鎮魂

碑文

北満やシベリアの凍土に眠る ともの御霊よ安らかに

昭和十六年三月 満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所入所 宮城秋田混成 寺田中隊編成 

隊員二百二名 隊長外幹部五名 同年六月二十二日勇躍渡満 浜江省一面波訓練所入所

軍奉仕

同年九月 国境の街 牡丹江省東寧訓練所に移行 三年間の訓練を終り 十九年六月 

同省寧安県東哈達湾地区に入植 第四次東哈達湾義勇隊開拓団誕生

五族協和 皇道楽土 新農村建設の槌音が高らかにひびく この頃大東亜戦争となり 団

員 の入隊応召はげしく 二十年八月 村上敬士外残留区員四十名全員招集 遂に団を閉鎖

渡満以来 訓練中死亡せるもの ソ連開戦による戦死者 帰国後病死せる者 併せて三百

十 二名の多きに達す 国敗れて偉業ならず 誠に痛恨にたえず 生還せる拓民相はかり

亡き 拓友■遺族■■慰霊し 後世に■■平和日本を念じ ここに鎮魂の碑を建立す

 

満蒙開拓青年義勇隊 嫩江訓練所岩槻中隊 拓魂

碑文

昭和十九年三月七日 満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所河和田分所入所 大東亜戦争苛烈のため

渡満延期となり 六月〜七月 出征家族援農のため北海道三地区に 八月〜三月 岡崎市 名古

屋市 の飛行機生産工場へ所外訓練 昭和二十年四月九日 焦土と化した大都市に胸をいためなが

ら渡満

出発 十五日に黒河省嫩江県八洲 満蒙開拓青年義勇隊嫩江訓練所入所 同年六月 関東軍の要

請 により 間島省延吉地区軍需工場に挺身隊として一部派遣 八月九日 日ソ開戦 関東軍の出

動要請 により嫩江部隊へ協力隊として派遣 間もなく終戦帰隊

八月二十五日 嫩江訓練所にソ軍進駐 兵器物資はすべて接収され 人員は連行収容される 以

後捕 虜難民として転々 食少なく栄養失調となり 衣乏しく厳寒に耐えかね 越冬を果さず倒れ

る拓友多数 

国策に殉じ異国の丘に眠る ああ悲しみにたえず 昭和二十一年夏ごろ 友の遺骨を胸に抱いて

空しく帰国した

 

満蒙開拓青年義勇隊 柏根訓練所小関中隊 拓魂

碑文

我らは若き義勇軍 われらは若き義勇軍 祖国の為ぞ 鍬とりて

万里涯なき 野に立たむ

いま開拓の 意気高し いま開拓の 意気高し

松の緑に囲まれた内原の日輪兵舎で鍛え、北満の開拓地「柏根の里」で、声を限りにうたい合った

此の歌は俺達の青春の歌だった。然し大東亜戦争が熾烈を加えるにつれ、拓友は若き軍人、軍属 と

して関東軍へ、いつか此の青春の歌は、夜を徹しての別離の歌となってしまった。そしてあの忌ま

わしい敗戦・・・・・・・。

斯して我が祖国の命運を賭けた重要国策満蒙開拓≠ヘ、世界開拓史上例のない悲惨な影を落 とし

終焉を告げた。此の間辛苦を共にした拓友四十余名を失う。されど為す術もなく異国に残して きた

事を思うにつけ、胸の痛むを覚える。あれから三十三年・・・・・・・・、荒涼たる満州の野に、

極北 のシベリヤ、南海の孤島に、今なお寂しく眠る拓友よ、聞いてくれ、奇しくも生き残った俺達

のうたう追憶の歌を。

 

第六次満蒙開拓青年義勇隊 鐵驪訓練所土生中隊 拓魂之碑

碑文

昭和十八年三月 時まさに大東亜戦争酣の頃 国策として推進されていた満蒙開拓青少年義勇軍に

宮城県内市町村から年齢十四才より十七才までの 少年二百十余名が志願し 茨城県内原訓練所に

おいて農耕畜産に 或は所外訓練として 北海道 青森 宮城県鹿島台 福島 神奈川 埼玉 大

阪  島根の各地で 食料増産 災害復旧等のため懸命に汗を流した 十九年三月 満州国北安省慶

安県 鐵驪に勇躍して渡満 夏は肌を焼く炎熱に農作業と開墾 冬は零下四十度に及ぶ酷寒の中での

訓練 所警備と伐採等 電灯もない悪環境の中あらゆる困苦欠乏に耐え 王道楽土建設を夢見てひた

すら に若い情熱を燃やして開拓に従事した

大東亜戦争も愈々熾烈となるや一部は召集され関東軍に入隊 一部は鞍山に挺身隊として派遣され

た  この間 三名の拓友が病魔に倒れた 二十年八月突如としたソ連軍の参戦 そして激動と混乱

たどり ついた奉天或は西安での一年余に及ぶ労役 生きるに衣食足りず 病に医薬なく その生活

たるや悲 惨 三年余辛酸を共にした拓友三十二名を失う その拓友と遺族の心情如何ばかりか 只

々胸に迫るものあり

三十三回忌に当り 奇しくも生き得た有志相図り 青春の志果せず散った拓友の霊安かれと祈り

この碑を建立す

 

追憶の詩

国は消えて満州の昿野に眠りし友よ この故郷に来たりていざ語り合わん

あの若き日の俺達の夢を

 

福島縣護國神社

福島県福島市

福島縣選出満蒙開拓少年義勇軍 慰霊之碑

碑文

時の国策に殉じた少年達の霊 ここに眠る

國の礎たらんことを自覚し 身を挺して散華した あなたたちは 満蒙開拓青少年義勇軍

我等義勇軍は 天祖の宏漠を奉じ 心を一にして追進し 身を満州建国の聖業に捧げ

神明に誓って 天皇陛下の大御心に副ひ奉らんことを期す

この綱領を胸に 祖国の安泰と五族協和 王道楽土の建設を 夢見つつ旅立った

同志の御魂よ

いま 護國の神域に相寄り 安らかに鎮まらんことを

昭和五十五年九月彼岸  福島県拓友連絡協議会会員一同

 

小田山忠霊堂

福島県会津若松市

満州会津村慰霊碑

殉難之記

昭和十七年二月十一日 国策により満州会津村建設期成会結成さる 会長若松商工会議所

会頭 故高瀬喜左エ門 理事九名 各種団体職域を網羅す この間時局緊迫し大東亜省 満

州事務局設 立され 同年五月一日矢吹訓練所の訓練を経たる二十七名を第一次先遣隊とし

て送り出し 興安東 省 布特哈旗成吉思汗壘跡に到着 満州会津村と名づく

爾後本体を歓送すること五次に及び駅頭沸く 会津村の用地一万町歩 団員六十八名家族

共総数一百五十二名 昼夜開拓に挺身す

然るに時局頓るに急を告げ二十年八月八日突如ソ連参戦 その強襲を避け急遽脱出するに

壮丁 既に現地に応召し老幼の男女のみなり 戦死者八名 行方不明二名 病没八十一名

千辛万苦言 語に絶す その霊位を市内安福寺に安置す

茲に広くこの奉公の事蹟を銘記し殉難死亡者の冥福を祈る

昭和四十四年十一月三日  慰霊碑建設期成会

 

満蒙開拓団

更新日:2013/06/29