箱根駅伝

 

東京―箱根間大学駅伝

大正9年2月14日、「従来の東京-箱根間大学駅伝」はアメリカ大陸横断駅伝の日本代表選考会という

位置づけで第回大会が行われた。

 

昭和16年、第二次世界大戦の勃発により東海道・箱根路は軍需品の輸送などの理由で使用が禁止さ

れ大会中止。

代替駅伝として明治神宮水泳場前-青梅熊野神社間往復駅伝を実施、同年11月には第2回大会が実施

され両大会とも優勝は日大(歴代大会には含まず)。

20歳以下の青少年に戦時訓練を施すため大日本青年団が結成。

 

昭和17年、体育の所管は一般が厚生省・学徒は文部省(大日本学徒体育振興会)の担当となり、明治

神宮大会を除く全国的運動行事は一切が中止となった。これに伴い日本学連が解体、陸上は「競技」か

ら「戦技」に移行、箱根駅伝も中止

 

昭和18年1月5〜6日、従来の駅伝に代わり「紀元2603年靖国神社-箱根神社間往復関東学徒鍛錬

継走大会」を実施。関東学生陸上競技連盟の学生幹事と各大学の先輩が、戦勝祈願を正面に建て企画

した苦心の開催だった。青山学院大学が初出場。日大が優勝。

この大会が第22回大会として正式に数えられたのは、17年後の昭和35年(第36回大会)からである。

 

昭和19年、戦況の激化により箱根駅伝は再び中断、以後3年間中断。

 

昭和22年、 駅伝大会を復活し第23回大会として開催。食糧難・人材不足等により選手の揃わない

学校も多く、砲丸投げや短距離の選手なども出場した。

 

第59回(昭和58年)からテレビ東京が初めてのテレビ放送を開始。しかし完全中継でなく録画ダイジェ

スト放送(ゴールは生放送)であった。その後、第63回(昭和62年)から日本テレビにより全国ネットの

本格的なテレビ中継が開始。以降、正月の風物詩として人気・知名度が格段に向上した。

 

箱根神社

神奈川県足柄下郡箱根町

為殉國学徒英霊慰弔 慈悲の像

 

  

為殉國学徒英霊慰弔 慈悲の像

解放と殉教

学徒出陣の声 父上母上 毎日多くの戦友 塵埃の如く海に陸に姿を隠していく私の胸に今よみがえって

来る温かき父母のいつくしみ 遠い遠い日の思出までもまざまざと私の心の血の底に通ってきます

そして 家を出る時 老いた母がまぶたを真赤に染めて合掌しながら 私を見送って下さった なつかしい

御慈悲の姿

奮然 正しきものの強い信念 誠実なる美しさ 従順な報国精神にもえたったのです そして世界平和のた

め 光輝ある日本民族は勿論 弱小民族国家解放発展と幸福と安穏のため 此処に訣別殉教いたします

嗚呼

 

閑話休題

更新日:2009/09/12