職業野球 戦没選手

 

英霊銘録

氏名 球団 守備位置 戦没地
青柴  憲一 巨人 投手 平壌第一陸軍病院
青木  勤 阪急 投手  
天川  清三郎 南海 投手 レイテ島
荒木  政公 阪急 投手 ソ満国境
池田  久之 阪急 捕手  
石井  豊 セネタース 内野手  
石丸  進一 名古屋 投手、遊撃手 神風特別攻撃隊 第五筑波隊
伊藤  健太郎 巨人 外野手 グアム・マンガン山
伊藤  甚吉 阪急 内野手  
上田  正 阪神 外野手  
遠藤  忠二郎 大東京 投手  
太田  健一 イーグルス 外野手 ビルマ(現ミャンマー)で戦死
大原  敏夫 阪急 捕手 中国
岡田  福吉 黒鷲−大和 内野手 戦病死
岡田  宗芳 阪神 内野手 ニューギニア
小川  年安 阪神 捕手 中国?
小野寺 洋 黒鷲 投手  
織辺  由三 セネタース 外野手  
戒能  朶一 名古屋 内野手  
景浦  将 阪神 外野手 フィリピン・カラングラン島
加藤  信夫 阪神 内野手  
川村  徳久 阪急 内野手  
北原  昇 南海 内野手 戦病死
鬼頭  数雄 ライオン 外野手 マリアナ方面
国久  松一 南海 内野手 ビルマ
倉   信雄 巨人 捕手 沖縄
桑島  甫 阪急 内野手 インパール作戦
後藤  正 名古屋 内野手 満州南苑方面
沢村  栄治 巨人 投手 台湾沖(レイテ島へ輸送中)
三田  政夫 巨人 外野手  
島本  義文 阪急 捕手  
白木  一二 名古屋 外野手  
新富  卯三郎 阪急 内野手 ビルマ
杉山  東洋生 イーグルス 内野手 フィリピン
高野  百介 南海 外野手  
田部  武雄 巨人 内野手 沖縄
辻   源兵衛 阪神 外野手  
寺内  一隆 イーグルス 外野手 ラバウル
永井  武雄 大東京 監督 北中国
中尾  長 セネタース 外野手 北中国
中河  美芳 イーグルス 内野手 ルソン島沖
中村  三郎 大東京 内野手 ノモンハン
中村  政美 巨人 内野手  
納家  米吉 南海 外野手 フィリピン・バターン
西村  幸生 阪神 投手 フィリピン・マタンガス島
野口  昇 阪神 内野手 フィリピン移動中
林   安夫 朝日 投手  
原   一朗 阪神 捕手  
広瀬  習一 巨人 投手  
平林  栄治 阪神 内野手  
福士  勇 ライオン 投手 フィリピン・ルソン島
伏見  五郎 イーグルス 捕手 フィリピン・メレヨン島
前川  正義 阪神 内野手  
前田  喜代士 名古屋 外野手  
政野  岩夫 南海 投手 硫黄島へ移動中
増田  敏 南海 内野手  
松下  繁二 阪神 外野手  
松本  利一 金鯱 内野手  
宮口  美吉 南海 投手  
三輪  八郎 阪神 投手 中国三東省
村上  重夫 ライオン 外野手 フィリピン・レイテ島
村瀬  一三 名古屋 内野手  
村松  長太郎 セネタース 外野手 大刀洗飛行機学校で演習中に殉職
村松  幸雄 名古屋 投手 グアム
森   国五郎 阪神 外野手  
森田  実 金鯱 内野手  
八木  進 南海 捕手  
吉原  正喜 巨人 捕手 インパール作戦
渡辺  靜 朝日 外野手 陸軍特別攻撃隊

 

 

沢村栄治/巨人軍:投手(左)                        吉原正喜/巨人軍捕手(右)

昭和19年12月 2日戦死(享年27歳)            昭和19年10月10日戦死(享年25歳)

三度目の応召で南方戦線に向う途中              ビルマ・インパール作戦で散華     

屋久島沖で敵潜水艦に撃沈され輸送船とともに沈没                             

 

西村幸生/阪神軍投手

昭和20年 4月 3日戦死(享年34歳)

フィリピン・マタンガス島で散華

 

石丸進一/名古屋軍投手

昭和20年 5月12日戦死(享年22歳)

神風特別攻撃隊 第五筑波隊として出撃、散華

 

景浦 将/阪神軍野手 (初代ミスター・タイガース)

昭和20年 5月20日戦死(享年29歳)

フィリピン・カラングラン島で散華

 

後楽園球場(東京ドーム)

東京都文京区

鎮魂の碑

碑文

第二次世界大戦に出陣し、プロ野球の未来に永遠の夢を託しつつ戦塵に散華した選手諸君の霊を

慰めるため われら有志相はかりて これを建つ

側碑 碑文

弟進一は名古屋軍の投手。昭和十八年20勝し、東西対抗にも選ばれた。

召集は十二月一日佐世保海兵団。十九年航空少尉。神風特攻隊、鹿屋神雷隊に配属された。20年

5月11日正午 出撃命令を受けた進一は、白球とグラブを手に戦友と投球。

よしストライク10本

そこで、ボールとグラブと“敢闘”と書いた鉢巻きを友の手に託して機上の人となった。

愛機はそのまま南に敵艦を求めて飛び去った。

野球がやれたことは幸福であった             .

忠と孝を貫いた一生であった                .

二十四歳で死んでも悔いはない               .

ボールと共に届けられた遺書にはそうあった。

真白いボールでキャッチボールをしているとき、進一の胸には生もなく死もなかった。

遺族代表 石丸藤吉

 

鎮魂の碑

 

倉田山球場

三重県伊勢市

沢村栄治銅像

 

西村幸生銅像

 

一誉坊墓地

三重県伊勢市

沢村栄治墓碑

 

閑話休題

更新日:2010/06/26