第五福竜丸

 

昭和29年 3月 1日、アメリカは北太平洋赤道海域のマーシャル諸島ビキニ環礁で水素爆弾の実験を

行った。

その爆発力は広島・長崎に投下された原子爆弾の1000倍以上にも達し、 太平洋の広い地域に多大の

被害を及ぼした。

 

ビキニ環礁で行われた水爆実験のきのこ雲

 

  

被爆前の第五福竜丸(昭和28年頃)                          第五福竜丸の大漁旗  

 

被爆

その日、日本のマグロ漁船:第五福竜丸はビキニ環礁の東方160キロメートルの海上で操業していた。

午前3時45分、突如西の空が明るく輝き、水平線から巨大な火の塊が浮かんだ。数分後に大爆発音が轟き、

3〜4時間後には空全体を覆った雲から白い灰が落ちてきて、甲板に積もり始めた。

白い灰は乗組員の顔、手、足、頭髪に付着し、鼻腔から隊内にも吸いこまれた。やがて放射線による火傷が

生じ、顔はどす黒くなり、歯ぐきからは血が滲み出た。急性放射線症状である。

第五福竜丸は、3月14日に母港の焼津に帰りつき、乗組員は焼津協立病院で治療を受け、特に症状の重い

二名は東京大学付属病院に急遽入院し、残る乗組員21名も順次上京して入院した。

その後も、第十三光栄丸、第五明神丸など放射能を受けた漁船が発見され、廃棄された魚は457屯にも

及んだ。

 

  

焼津港での放射能検査                               魚屋の店頭の貼紙

 

昭和29年 9月23日、無線長の久保山愛吉さんが、「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい」という言葉を

残して、この世を去った。

第五福竜丸の乗組員23名のうち、今日まで12名が亡くなっている。

またビキニ環礁に近い島々でも、40余人の方々が亡くなり、被害は今なお深刻である。

 

  

国立東京第一病院に入院中の乗組員(右:久保山愛 吉さん)        9月25日、東京駅から焼津へ帰る久保山愛吉さんの御遺族

 

アメリカの対応

アメリカ側は実験直後に「日本側の被害報告は誇張されている、被爆漁師はスパイではないのか」などの意見を

表明していた。

被爆者を治療する日本医師団は、より良い治療法を模索してアメリカ側に水爆のデーターの提供を申し入れたが、

アメリカ側からの回答は遂に来なかった。久保山さんが重態に陥った時も「日本医師団の治療に手落ちがあった、

原因は放射能では無い、アメリカに法的責任は無い」などと語った。

最終的にアメリカ側の法的責任は不問に付されたまま補償金は支払われず、200万ドル(約7億2000万円)の慰

謝料で決着した。しかし漁業関係の被害総額は24億7000万円と推計されており、第五福竜丸の乗組員一人当り

に配分された金額は、僅か200万円という見舞金程度のものに過ぎなかった。

 

日本政府は、広島・長崎・ビキニと三度の被爆被害を受けているにも係わらず、アメリカの核実験を容認する態度

に終始している。

 

  

夢の島に放置された第五福竜丸(当時の船名:はやぶさ丸)

 

夢の島公園 第五福竜丸展示館

東京都江東区

      

第五福竜丸 船首

 

      

第五福竜丸 船尾

 

  

第五福竜丸 操舵室                              第五福竜丸 無線機

 

  

久保山愛吉さん慰霊碑

碑文

原水爆の被害者は わたしを最後にして欲しい

 

被爆して築地市場の一角に埋められた魚を供養する「マグロ塚」

 

  

第五福竜丸 エンジン

由来

第五福竜丸は昭和42年に廃船となって買い取られ、エンジンは第三千代川丸に取り付けられた。

その後、同船は昭和43年7月に三重県熊野灘沖で座礁・沈没し海中に没した。

平成8年12月、28年ぶりにエンジンが引き揚げられ、船体と一緒に保存したいと云う有志の運動と

募金により、平成10年に当地へ搬送・展示されることとなった。

 

閑話休題

更新日:2008/09/19