加藤榮吉

海軍大佐

 

略歴

明治30年 1月10日 福島県会津若松市出身

大正 7年11月21日 海軍兵学校卒業(46期)

大正 7年11月21日 「常磐」乗り組み

大正 8年 8月 1日 「榛名」乗り組み

大正 8年12月 1日 「日進」乗り組み

大正 9年 8月 1日 「富士」乗り組み

大正 9年12月 1日 海軍水雷学校普通科学生

大正10年 5月20日 海軍砲術学校普通科学生

大正10年12月 1日 「比叡」乗り組み

大正11年12月 1日 「樫」乗り組み

大正12年12月 1日 「筑摩」乗り組み、分隊長心得

大正13年 5月31日 「迅鯨」乗り組み、分隊長心得

大正13年12月 1日 海軍砲術学校高等科学生

大正14年12月 1日 「長門」乗り組み、分隊長

昭和 2年 9月 1日 「北上」乗り組み、分隊長

昭和 3年12月10日 「榛名」乗り組み、分隊長

昭和 4年11月30日 「多摩」乗り組み、砲術長 兼分隊長

昭和 6年12月 1日 舞鶴要港部副官 兼参謀

昭和 8年11月15日 上海海軍特別陸戦隊分隊長

昭和10年12月 2日 佐世保海兵団砲術長 兼教官分隊長

昭和11年12月 1日 呉海兵団分隊長 兼教官

昭和12年 8月25日 呉鎮守府軍法会議判士

昭和13年 7月 2日 上海海軍特別陸戦隊司令

昭和13年12月 2日 呉鎮守府参謀長

昭和14年 1月20日 横須賀鎮守府第四特別陸戦隊司令

昭和15年 1月 6日 大湊要港部参謀 兼津軽要塞参謀

昭和15年 8月 9日 三沢海軍航空隊設立準備委員会委員

昭和16年 6月20日 北部軍参謀

昭和16年10月11日 横須賀海兵団長

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和18年 9月 5日 第八十七警備隊司令

昭和20年 8月15日 終戦

昭和21年 8月 1日 豪ラバウル裁判の判決により殉難死

昭和34年10月17日 靖國神社へ合祀

昭和44年10月30日 従四位を贈る(総理大臣佐藤栄作)

昭和46年 3月27日 勲三等を贈る(総理大臣佐藤栄作)

 

海軍第八十七警備隊

ソロモン諸島の一つブーゲンビル島ブカ地区を警備する海軍第八十七警備隊は、ラバウル防衛作戦の要であった。

昭和17年 3月、日本軍がブーゲンビル島を占領したが、まもなく米濠連合軍との激戦が開始された。

昭和18年 5月 5日、加藤大佐に第八十七警備隊司令の正式発令が公布された。

この時、夫人の胎内には三男が宿っていたが、遂に生きて見えることは無かった。

 

当初の隊員は800名。その後、陸軍部隊、軍属・基地設営隊員などの準戦闘員が加わり、終戦時の隊員は8,000名

に増えていた。

海軍第八十七警備隊の戦病死者、約4,000名。捕虜となって収容所で死亡した者は、正確な記録は無いが数百名と

思われる。

昭和21年 2月15日、残った隊員達は病院船「氷川丸」に乗り内地へ引き揚げた。

 

B級戦犯容疑

訴因

昭和二十年五月頃、ブカ島付近のマツガン、ペタツ島民六名を逃亡の恐れ有りとの理由の元に銃殺命令を発せり

(BC級戦犯 濠軍ラバウル裁判資料)

交戦中のゲリラ、スパイ等の処置は、双方にとって戦争の一部であり犯罪か否かの判別は付け難い。

また敵性島民の処分は戦闘を指揮する者の義務であった。

収容所の一角で濠軍中佐から「島民を殺害するにあたり、裁判を行ったか」と問われた加藤大佐は、「裁判はない。

私の命令で行った。たとえ私のいない所で起こった事でも、全ての責任は私に有り、部下には一切の責任は無い 」

言いきった。

「命令により行った下級の実行者は、戦争犯罪人とはならない。責任は命令を下した指揮官にある」 、この姿勢は後の

ラバウル裁判でも変わることが無かった。加藤大佐に、生きて日本に帰る積りは無かった。

 

絶筆(昭和21年 7月31日)

Aコンパウンド各位殿

短期間ながら在舎中は種々御厄介になりました 御陰を持ちまして心残り置きなく天国に行く事が出来ます 

各位の減刑及御健闘を祈り申上げます さようなら

 

松江(妻)殿

本日ラバウル豪州軍法会議の判決通り死刑の確定を言い渡され 明八月一日午前九時銃殺せらるる

事になった

従って小生の命日は 八月一日として呉れ 後事は万事宜しく頼む 皆々様に宜しく申し上げてくれ

種々御厄介になりました

小生は何等心配なく死んで行く事が出来る  さようなら  之が小生の絶筆なり

 

最期

八月一日、午前九時五分、銃殺刑執行さる。

 

 

陸奥国分寺

宮城県仙台市若林区

  

           加藤家墓碑                             元海軍大佐正五位勲三等加藤榮吉追悼碑 一死報國

碑文

(前略)昭和十八年ブカ島警備隊司令当時 我海空軍戦況不利 同島は遂に孤立無援飢餓の境に在て尚悪戦苦闘

一年有半 八千の部下将兵は戦死病没過半数を失う

同二十年八月十五日勅命により降伏 同月南東方面艦隊司令長官より感状授与

同二十一年八月一日部隊長として責を一身に負い従容濠軍の凶弾に斃る

噫遺書に曰く「一死報國は固より期する所 吾今職に殉す 果して克く國に報する所以なるか」と其心境に想到する時

涙滂沱たるを覚ゆ英霊 尚くは安かれ其殉職は明に報國の大義を全うしたるものと信す

茲に慰霊をかね其功績を永遠に顕彰せんとす

 

瑞巌寺

宮城県宮城郡松島町

ブカ地区警備第八十七警備隊 司令加藤榮吉海軍大佐外四千四百四十四柱 鎮魂碑

 

比島観音

愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山

殉国百四十五烈士之碑

碑文

第二次世界大戦の終結後 戦勝各国は戦争犯罪法を制定し これに基づき 多数の敗戦国人を戦争犯罪容疑者とし

て強制逮捕し これを裁判に付した そしてその裁判は まさに奢れる勝者が敗者を裁く 正義人道の名に隠れた復讐

裁判であった この戦争裁判で有罪になった人たちは敗戦の悪運を嘆き 家族の待つ故国への帰還の夢も空しく無実

の罪人として異国の獄舎に幽閉され あるいは忍堪の重労働に善禍の歳月を過ごし 或は刑場の露と消え国に殉じた

のである

われわれは わが国今日の平和と繁栄とが これらの人たちの献身犠牲に負うところまことに大であることを信じ ここ

に心から敬仰の誠を捧げ深謝するものである

この碑は南太平洋戦域のオーストラリア及びオランダ両国管轄の軍事法廷において極刑判決をうけラバウル マヌス島

モロタイ島で処刑された百四十五烈士の殉国の偉業を顕彰し慰霊するために 建立するものである

 

軍事裁判

更新日:2008/06/15