堀内豊秋

海軍大佐

略歴

明治33年 9月27日 熊本県飽託郡川上村出身

大正11年 6月 1日 海軍兵学校卒業(50期)

大正11年 6月 1日 「浅間」乗り組み

大正12年 9月20日 「長門」乗り組み

大正13年 7月 4日 海軍水雷学校普通科学生

大正13年 9月10日 「最上」乗り組み

大正13年12月10日 海軍砲術学校普通科学生

大正14年 9月21日 霞ヶ浦海軍航空隊飛行学生

昭和 2年12月 1日 海軍砲術学校高等科学生

昭和 3年10月 1日 横須賀海軍航空隊司令付

昭和 5年12月 1日 海軍兵学校教官 兼監事

昭和 7年12月 1日 「薄雲」砲術長 兼分隊長

昭和 8年 1月25日 「東雲」砲術長 兼分隊長

昭和 8年11月 1日 「白雲」砲術長 兼分隊長

昭和 9年10月22日 海軍砲術学校教官 兼分隊長

昭和14年 2月20日 横須賀鎮守府第二特別陸戦隊司令

昭和16年 9月25日 横須賀鎮守府第一特別陸戦隊司令

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和17年 1月10日 セレベス島メナド(インドネシア)のラゴアン飛行場に奇襲攻撃(落下傘部隊)

昭和18年 1月15日 馬公警備府

昭和18年 4月 1日 高雄警備府

昭和18年12月 5日 呉鎮守府付、「高雄」副長

昭和20年 2月10日 海軍兵学校教官 兼監事

昭和20年 3月 1日 海軍兵学校教官 兼監事(針尾分校)

昭和20年 7月15日 海軍兵学校教官 兼監事(防府分校)

昭和20年 7月25日 呉鎮守府第十一特別陸戦隊司令

昭和20年 8月15日 終戦

昭和22年 1月 6日 戦犯容疑で巣鴨へ収監

昭和23年 9月25日 蘭 メナド裁判の判決により殉難死(享年48歳)

昭和34年 4月 6日 靖國神社へ合祀

昭和44年11月29日 正五位勲三等旭日賞を贈る(総理大臣佐藤栄作)

 

海軍体操

昭和 9年、海軍砲術学校の教官として在職中、海軍体操改正の必要性を認め、デンマーク体操を

日本人向けに改良、海軍体操の全面的改正に貢献した。

 

日華事変

昭和12年、陸戦隊指揮官として南シナ・アモイに進駐し、約二年間軍政に携わり、現地住民の信望

を一身に集めた。指揮官交代が発令された時、現地住民は駐留継続を願う嘆願書を最高司令官に

提出した。堀内部隊が同地を去るに当り、住民は「去思碑」を建立して堀内大佐の徳を偲んだ。

 

落下傘部隊

昭和17年、日本初の落下傘部隊長としてセレベス島メナド(インドネシア)の後略作戦に参加。自ら

降下部隊の先頭に立ちラゴアン飛行場を急襲、成功を収めた。内地帰還後、天皇陛下に異例の単

独拝謁を許された。

 

戦犯容疑

終戦後、メナドにおけるブカの過失に対する責任を問われ、オランダ軍事法廷に召還された。現地弁

護人の懸命の努力にもかかわらず昭和23年 9月25日刑が執行された。

辞世

神そ知る罪なき罪に果つるとも 生き残るらむ大和魂

白菊の香を残し死出の旅 つはものの後我は追ふなり

 

オランダ軍は刑の執行に当り、特に儀杖兵を配して軍人に対する最高の敬意を表したという。

 

安房神社

千葉県館山市

海軍落下傘部隊慰霊碑

碑文

太平洋戦争急を告ぐる昭和十六年後期 我が軍最初の海軍落下傘部隊として誕生し 十八才より

四十五才までの精鋭なる将兵二千有余名により編成 任務の特質上其の訓練は厳正なる軍規の

基 猛烈にして不撓不屈の落下傘員魂は茲に編成された 第一特別陸戦隊は昭和十七年一月十一

日十二日 セレベス島のランゴワン飛行場に十字砲火を浴び戦闘降下を敢行 更に第三特別陸戦

隊は同年二月二十日二十一日 チモール島クーパンに戦闘降下を敢行 共に占領に成功 其の功

績の顕著な事に対し時の連合艦隊司令長官山本五十六大将より感状を授与せらる(後略)

 

軍事裁判

更新日:2001/09/16