本間雅晴

陸軍中将

 

略歴

明治20年11月  日 新潟県佐渡郡畑野村出身

明治40年 5月  日 陸軍士官学校卒業(19期)、恩賜の銀時計を拝領

明治40年 5月  日 歩兵第16連隊付

大正 4年  月  日 陸軍大学校卒業(第27期)、恩賜の軍刀を拝領

大正 7年  月  日 英国留学

大正11年 8月  日 陸軍大学校兵学教官

大正11年11月  日 駐印大使館付武官

昭和 2年  月  日 秩父宮付武官

昭和 5年  月  日 英国駐剳帝國陸軍武官

昭和 6年12月  日 軍縮会議随員

昭和 7年 5月  日 参謀本部付

昭和 8年 8月  日 歩兵第一連隊長

昭和10年 8月  日 歩兵第三十二旅団長

昭和11年12月  日 参謀本部附(秩父宮欧州出張に随行)

昭和12年 7月  日 参謀本部第二部長

昭和13年 7月  日 第二十七師団長

昭和15年12月  日 台湾軍司令官

昭和16年11月  日 第十四軍司令官

昭和16年12月 7日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和17年 4月 9日 バターン半島攻略(バターン死の行進)

昭和17年 8月30日 予備役

昭和20年 8月15日 大東亜戦争終戦

昭和20年 9月14日 B級戦犯として起訴、巣鴨プリズンに収監

昭和20年12月13日 比島ロスバニヨス刑務所に移送

昭和21年 4月 3日 マニラにて銃殺刑(享年59才)

 

起訴

昭和20年8月30日、日本に進駐したマッカーサー連合軍最高司令官はすぐに、東條英機、嶋田繁太郎、

本間雅晴の逮捕と戦犯リストの作成を命じた。海戦時の首相兼陸相・東条陸軍大将と海相・島田海軍大将

に加えて本間雅春の名前が挙げられたのは、マッカーサーの第二の故郷とも言うべきフィリピンでの日本軍

から受けた屈辱を晴らす為であった。

本間に対する起訴状には43項目の罪状があげられていた。曰く、アメリカ人に対する斬首の許可、バターン

での米比捕虜に対する「死の行進」、無防備都市を宣言したマニラに対する砲撃、米軍第二夜戦病院に対す

る砲撃、米軍捕虜に対する刺殺の許可、フィリピン人家族に対する虐殺の許可、銃剣訓練におけるフィリピン

人の試し斬り、等々。

それまで本間雅晴は、陸軍きっての親米英派を自認しており開戦にも反対し、比島では陸軍中央から叱責を

買うほどに善政を敷いた積りでいた。しかしマッカーサーにとっては、輝かしい戦歴の中で比島での敗戦と豪

州への敗走は人生最大の汚点として残った。その時の勝者こそが、日本陸軍第十四軍司令官の本間雅晴

にほかならなかった。本間雅春はバターン第一時攻撃失敗の責任を取らされて、比島戦終了後に予備役へ

編入され正式な軍人ではなかったが、マッカーサーには復讐心しかなかった。

  

マニラ裁判での本間中将                証人として証言する富士夫人

 

裁判

本間雅晴は、マニラ裁判が公正に行われる事は無いと悟ったとき、「私は道徳的責任の処罰に、死刑

を科することの可否を論ずることの無駄を承知しています。戦争に負けたのだから致し方ないと諦める

より外ありません」と書き記している。

昭和21年1月中旬に富士夫人がマニラに到着、3〜4日おきに夫との面会を許された。2月7日には

承認として法廷に立ち、記憶の隅々まで探って夫の無実を晴らす為に力を込めて証言した。証言の最

後で本間雅晴の男性像を質問された富士夫人は、「娘がいつか結婚するときは、夫のような立派な人

を見つけてあげたいと心から望んでおります。本間雅春とはそのような人で御座います。」と述べた。

 

判決

しかし2月21日に下された判決は、有罪であり絞首刑が宣告された。31日に富士夫人は東京・日比谷

のGHQにマッカーサーを訪ね、「裁判記録を良く読んで判決を下すこと」を申し入れたが、マッカーサー

はこれを真っ向からしりぞけた

3月21日、マッカーサーは最終決定を下した。本間雅晴が武人であることを認め、罪一等を減じ銃殺刑

という判決であった。

 

処刑

4月3日、本間雅晴は刑の執行を前に、次のように語った。

「私はバターン半島事件で殺される。私が知りたいのは、広島や長崎の無辜の市民の死はいったい誰の

責任なのか、という事だ。それはマッカーサーなのか、トルーマンなのか」

本間雅晴は黒い頭巾をかぶせられ、柱に縛り付けられた。刑場に本間の気迫のこもった声が響いた。

「さあ、来い」

 

春秋苑

神奈川県川崎市多摩区

本間家之墓

墓誌

本浄院殿洪徳雅春大居士  本間雅晴

昭和二十一年四月三日 於比島ロスバニヨス没 五十九才

辞世の歌

甦る皇御國の祭壇に 生贄として命捧げむ。

栄えゆく御國の末疑わず こころゆたかに宿ゆるわれはも

予てより捧げし命いまここに 死所を得たりと微笑みてゆく

戦友等眠るバタンの山を眺めつつ マニラの土となるもまたよし

恥多き世とはなりたりもののふの 死ぬべき時を思ひ定めぬ

本光院殿貞徳富明大姉  本間富士

昭和六十三年一月一九日 行年八十四才

 

      

墓誌                                側碑

側碑碑文

われらは此所に本間雅晴将軍の名を記録するこちを誇りとする 将軍は太平洋戦争の悲劇的運命に殉じて

刑場の露と消えたが 剛毅果断にして温情豊かなる人格への思慕は 国民の心に年と共に新しく 従容とし

て死に就いた将軍の姿は愈々光彩を加え来たるであろう

 

軍事裁判

更新日:2004/07/18