被虐待の証言

「戦争裁判の実相」より

 

米、英、仏、蘭、豪、中の連合国軍は、逮捕した容疑者および既決囚に対し、言語に絶する

暴行・残虐を加えた。その一部を紹介する。

 

アメリカ グアム裁判

昭和21年諸島より同22年末にわたる二年半におよぶ虐待行為のため、2名の発狂者、

自殺者が出た。

携帯せし被服は全部没収し、僅かに褌一本、ボロ靴一足とし全裸のままとす。起床時間は

暗い中に叩き起こし、洗顔口漱ぎをも許さず、壁に向かって立たせしめ両腕を目の高さに

挙げ、左右前膊を曲げ、目の前にて重ね合わせ直立不動の姿勢を執らしむ。このまま何時

間でも継続せしめる。

朝食時が来ると各人に缶詰野菜を匙に一杯、ゆで卵半分、ベーコンの小指大一枚、レモン

水コップ一杯程、主食等全然無し。

朝食終われば再び食前同様壁に向かって直立不動の姿勢を執らしめ、両腕を目の高さに

挙げこのまま昼食まで継続する。

大小便は一日を通じて1、2回許すのみ。

昼食時は厚さ二分位のパン半切れか、もしくは角型ビスケット2、3片、副食は朝と同じ程度

なり。食事終われば再び壁に向かって直立不動の姿勢を執らしむ。

午後二時より運動と称して所外に出し最も披露し易き体操、例えば四つ這になるケンスイ運

動、跳躍運動を倒れるまで行わせ、最後に泥沼に突き倒し這い上がって来ると蹴ったり、又

腹這いにさせて身体の上を番兵がピョンピョン跳んで踏みつける。一同が失神するまで繰り

返す。これが終わると二分間シャワーで身体を洗う。

シャワー後は室内に入れ再び直立不動の姿勢にあらしむ。

夕食は昼食と大体同様、食後用便を駈足に便所へ行かしむ。全員終わるまで直立不動姿勢

は元の如し。ジャングル内に収容所有るが故に、昆虫(蚊、ブヨ等)等来襲し其の痒さ言語に

絶するものあり全く発狂しそうである。と言って身体を動かせば棍棒でなぐりつけられる。

夜に至るや再び起立せしむ。しかして眼前二十糎位の所の二百ワット電球を注視せしめられ、

両腕は顎の前方に重ね合わして不動の姿勢、番兵は各房を廻り歩きて天上を向かせ、両腕

を降ろさせ突然水落の急所を突き上げ気絶する者続出す。しかして彼等は呵々大笑いして嬉

々として嬉しがっており、全く鬼畜の振る舞いだ。殆ど毎日毎晩斯様な行動が繰り返され恐怖

の為、遂に熊谷看護兵は発狂せり。かくして十時頃に就寝を許す。

番兵は容疑者の義歯金冠を強要し強奪せり。番兵は容疑者に強要して口中に陰茎を挿入し

射精せり。手淫を強制し応ぜざる者を殴打、足蹴せり。

 

イギリス シンガポール裁判

夜毎夜毎監房への殴打、拷問等、当時の所長フランシス大尉以下白人兵によって加えられた

暴虐の数々、今思うだに惨烈を極めたのは、最初のオートラム時代であって、それは正に鮮血

に彩られた一篇の哀史である。和才信夫、山田健三郎の両氏が撲殺されたのもこの時代であ

る。この時期に殴打、拷問等暴行を受けなかった者は殆どいなかったと言ってよい。

チャンギー刑務所に移ってからは、これほどでは無かったけれども、殴打や拷問は依然として

行われ、併せて夜間の睡眠妨害、脅迫等精神的虐待が盛んに行われた。

この世のものとも思えぬ死刑囚虐待は、世間の誰にも知られない戦慄すべき一頁である。当時

未決の身であった戦犯容疑者達は常に大きな不安に脅かされていた。それは将来己が身に襲

いかかるであろう死の裁判に対する不安よりも、現在己の上に直接襲いかかる暴力迫害に対す

る恐れであった。

 

イギリス 香港裁判

香港のスタンレー監獄に入ったのは20年9月25日。同10月1日にコマンド部隊に交代してか

らは虐待の連続であった。最初は一日中監禁されており、午後一回運動と称して一名づつ引き

出し、長さ50米のコンクリート廊下をぐるぐる駈足させる。速度がおくれると、矢庭に鞭を振り上

げて叩く。倒れそうになると更にはげしく打つ。すっかり叩きのめされて監房に入る。収容されて

くる者は九龍の収容所から香港の渡船場まで四粁を行軍中、倒れそうになったり、よろめいた

りする者を遠慮会釈なく棍棒で頭、手、背と処構わず殴られるので、スタンレーに着いた者のうち

には十名位の怪我人が必ずなった。棍棒で頭を叩かれた者は1、2糎の裂傷がある。三角巾で

応急に手当しても、流れる血は頬を伝わる。

21年正月2日、80名の容疑者に集団処罰が加えられた。褌一本の裸体にして、小雨の降る中

を屋外に連れ出し、コンクリートの冷たい歩道に五分間うつ伏せに寝かせ、次に温かい水でシャ

ワーを取らせ、再び雨中で運動、体操。此の間三十分。全身は冷えて歯はカチカチと鳴り、鳥肌

がたって唇の色は失せた。

21年正月も虐待の連続。特にエドワード伍長は監房を一つづつ開けていって拳闘の実施指導を

行った。直立不動させ、二言三言しゃべって気をそらせ、急に拳を持って鳩尾をついた。我々をノ

ックダウンするにはこの鋭い一撃で充分だ。「get up」の怒声で立ち上がるや又一発。声の出る

余裕がない。21年2月始め、日本から到着したN大佐はその翌日にもう顔が変形していた。同大

佐は屡屡暴行の対象となり、坐骨神経痛が再発して松葉杖をついて断頭台に上がった。殴打に

より耳の変形した者は外に二名。そのうち一名は五十過ぎの老人であったが、耳に血腫が出来、

残忍なる英国兵の一撃を受ける度に、鮮血が高さ九尺の天上迄とどいた。こうした虐待はその後

も続き、訓練と称して素足のまま硝子の破片、ブリキの破片を捨てた穴の中を行進せしめ、足を

切るのを眺めては快哉を叫んでいた。

 

フランス サイゴン裁判

日中も真暗の一米半四方の独房に四十五日間、コンクリートの床上に寝具、蚊帳もなく、一枚の

筵、褌一本にて監禁せられた。

探偵局において、真裸、後手錠、足枷をはめられ、三日間廊下に放置せらる。此の間、断水断食。

両手両足錠をかけられ、三昼夜絶食断水の侭放置せらる。四日目取調時「水は欲しくないか」との

問に所望するや、約二立半の水を無理矢理呑まされた。

Y大尉、S少佐は惨状目を蔽う拷問を受け、チーホア刑務所に帰された時には耳の穴から血を出し

ていた。両者はこの虐待と拷問に抗し憤死したが、Y大尉の如きは石鹸に爪書で「仏蘭西人の暴状

に死を以て抗議す」の遺書を認め、薄暗い独房で溢死を遂げた。

 

軍事裁判

更新日:2001/07/31