鎮魂の霊地

横須賀海軍墓地

 

馬門山墓地

神奈川県横須賀市

 

沿革

明治15年 1月  日 海軍省が海軍埋葬地として制定

明治17年12月  日 横須賀鎮守府開庁

昭和20年 8月15日 大東亜戦争終戦

戦後は横須賀市営墓地となったが、市当局の方針により戦没者慰霊碑の建立は一切許可されていない。

 

祭祀

合葬碑 7基、個人碑 279基、1,200余柱

 

北京篭城軍艦愛宕戦死者碑

碑文

世の海軍を言ふ者長風を凌き鯨濤を蹴り敵艦を碎くを知るも 時として陸軍の津梁と爲とて彼岸に濟たすを知らす

或は之を知るも時として銃剱を提け隊伍を結ひ面を蹂み猛進するを知らす 盖し海戰は海軍軍人の固より快と爲す

所なるも陸軍掩護陸戰隊に至りては却て險艱これより甚しき者あり 明治三十三年北清奉匪亂興るや軍艦愛宕警

備に任を帯ひ 大沽に在り五月三十一日急報を得て北京帝國公使館及居留民保護の爲め賊勢潮の如く銃砲を放ち

剱戟を揮ひ四面薄り攻め 各國公使館重圍中に陥るもの六十餘日所謂千百盡きるに就くの卒を以て百萬日に滋き

の師と戰ふ時 會天熱し瘴氣満地糧盡き彈空しく面貌物黒肉落千骨立つに至るも勇氣凛然亳も屈する色なし 初め

英公使粛親王府の守らさるへからさるを發言するや各國兵皆難色あり 我兵進みて克く之を儼守せり 英獨換各國

公使館の免を告るや我兵走りて之を援ひ毎に奇功を奏せり 而して我陸戰隊中命を殞す者ニ等水兵鎌田萬次郎 

同河内三吉 三等水兵町野兵右衛門 同礒貝棄蔵同高田佐太郎 其侘重傷者九人輕傷者七人恙なき者僅に四人

のみ子嗟烈哉 仰此役や敵は烏合の衆にして歯牙に置くに之をさるも 歐米各邦聯合軍と肩を竝へ踵を接し猛進奮

闘啻に其背後に落ちさらすのみならす 斗大ノ膽英霊の氣一種大和民族の異彩を發揚し彼輩をして瞠若たらしめた

るは義勇兵の忠義に出つると雖も えか首力と爲て率先せる我陸戰隊の功に歸ひさるへからす且開戰第一各國兵

に挺進して大沽砲臺に旭旗を樹てたるも我海軍にして 北京籠城中首カと爲りたるも亦我海軍なれは實に帝國海軍

の光榮と謂ふへきなり 爰に僚友相謀り碑を建て以に諸子の霊を祭り其偉勲を千載に傳ふと云ふ

 

  

第四艦隊遭難殉職者之碑                             軍艦筑波殉難者之碑

 

  

特務艦関東殉職者碑                             軍艦河内殉難者之碑

 

横須賀臨海公園

神奈川県横須賀市

 

 

海軍の碑

建立趣意

浦賀に黒船が現れ、鎖国の夢を破られた幕府は、ここ横須賀の地に製鉄所を建設し、近代海軍の

創設を企画した。

その後、明治維新により明治政府が樹立され、幕府は西欧諸国に比し、一世紀以上の遅れを取り

戻すべく、我が国の近代化に着手した。

特に海軍の整備が重要視され、日清及び日露両戦役を経て、わが国の海軍は次第に整備充実さ

れ、世界三大海軍国の一つとして、その地位を占めるら至った。

こうした近代海軍の創設及び成長という歴史の流れの中において、横須賀はその最重要基地とし

て、かつての一寒村からわが国屈指の軍港都市となり、発展を遂げることになった。

海軍終息から五十年という節目に当る本年、明治以来太平洋戦争終結までこの地にあった日本

海軍の歴史、並びに太平洋戦争において亡くなられた

多くの人々を偲びつつ、またわが国の永遠の平和を希求するため、この記念碑を建立する。

 

  

軍艦長門碑

碑文(表)

ありし日の 連合艦隊旗艦長門の 姿をここに留めて昭和激動の時代を 偲ぶよすがとする

 

  

軍艦山城之碑                             軍艦沖島の碑

 

  

国威顕彰

戦艦の艦橋を模した石碑。銘板ははがされ建立の趣意は不明。

 

光心寺

神奈川県横須賀市

    

軍艦比叡戦没者供養塔(左)、軍艦比叡鎮魂碑                                 忠魂祠堂        

 

三笠公園

神奈川県横須賀市

記念艦みかさ(戦艦三笠)

 

  

記念艦みかさ(戦艦三笠) 連合艦隊司令長官・東郷平八郎海軍大将

 

  

記念艦みかさ(戦艦三笠) 主砲  …艦首は皇居の方角を指している

 

  

記念艦みかさ(戦艦三笠)

 

鎮魂の霊地

更新日:2010/03/13