桜ヶ丘聖地(大分陸軍墓地)

大分県大分市

写真提供:浅野 永様

 

ユフタ付近戦死者墓(兵長から二等兵まで)

 

田中支隊 ユフタの戦い

第一次世界大戦は4年余にわたって戦われたが、特にロシアに与えた影響は甚大で、大正6年3月にロシア

革命が起り、翌年3月にはドイツと単独講和を締結してロシア軍は殆ど解体状態となった。

当時オーストリア・ハンガリー軍のチェコ・スロバキア人兵士の中からロシア軍に投降し連合国側に協力してい

た約5万のチェコ・スロバキア軍団は、ウラジオストクから欧州の連合国側戦線に増援のため同地に移動して

いたが、各地でロシア過激派(革命派)等の抵抗を受けていたので、日本・アメリカ・イギリス・フランス等の各

国はチェコ・スロバキア軍援助の名目でシベリアに軍を派遣することを決した。

日本からは第12師団が派遣される事となり、大正7年8月ウラジオストクに上陸、9月初めにはハバロフスク

に進軍した。田中支隊が属する歩兵第72聯隊は更に西進してアムール州(現在の中国黒龍江省北方)方面

の過激派討伐に任じたが、広域のため小部隊を僻地に分散配置し苦戦を強いられていた。

第3大隊長田中勝輔少佐は砲兵等の配置を受けて田中支隊を編成し、大正8年2月25日敵の退路を遮断

する任務を受けユフタ(ブラゴベシチェンスク北方)付近に達するや、敵の大集団が北方に退却しつつあるの

を知り香田驍男歩兵少尉の指揮する小隊44名を偵察のため先遣したが、約20倍の敵の攻撃を受け負傷者

3名の外全員戦死した。

支隊主力の150名は香田小隊を赴援中、26日朝香田小隊を覆滅した敵と遭遇したが衆寡懸絶して包囲され

敵に多大な損害を与えたが支隊長は敵弾を受けて自刃し、全員壮烈な戦死を遂げた。

更に、配属の砲兵中隊及び歩兵一小隊は西川達次郎砲兵大尉が指揮し、ユフタにおいて待命中、主力方面

に銃声を聞き救援に赴いたが優勢な敵と衝突し、負傷して戦場を退いた5名の外107名悉く火砲と運命を共

にした。


  

記念館

 

        

    納骨塔                               満州事変戦没者合祀碑

 

    

     済南事変戦死者之碑                           旧衛戍地埋葬者合祀碑

 

やまばと児童公園

大分県大分市

    

大分連隊跡之碑

碑文

歩兵第七十二連隊 新設により明治四十一年七月大分に駐屯 以来大正十四年五月の軍縮廃隊まで

歩兵第四十七連隊 大正十四年七月小倉北方より移駐 昭和二十年八月の終戦解隊まで       

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はるかの碑

碑文

私達はここで学んだ遥か少年の頃に思いをいたし この平和がここで遊ぶ子供たちの遥かな未来まで

続くことを祈って この碑を「はるかの碑」と呼び ここに桜や■を植えます

1995年 春   元大分陸軍少年飛行兵学校跡地顕彰会

 

同期の桜 由来

昭和十八年十月から昭和二十年八月までの短い期間ではあったが この地に大分陸軍少年飛行兵学

校が存在した 巣立ち学んだ陸軍生徒は 四千名 十四歳から十六歳の紅顔の少年たちだった

その若く稚い情熱は祖国防衛のため敢然として戦い且つ学んだ

戦いは終わった 幾星霜を経た今日 同期生らはこの桜を植樹し平和を祈り 蒼穹に向け同期の桜を

うたう

元大分陸軍少年飛行兵学校有志

 

鎮魂の霊地

更新日:2009/02/08