皇子山

 

大津陸軍墓地

滋賀県大津市

 

 

明治三十七八年戦役兵卒戦病死者合葬碑

 

  

明治三十七八年戦役士官戦病死者合葬碑                  明治三十七八年戦役下士戦病死者合葬碑

 

  

明治三十七八年戦役将校同相当間戦病死者合葬碑                   大正四年乃至九年戦役戦病死者之碑  

 

大東亜戦戦没者之碑

 

  

兵士個人墓

 

日清 日露 第一次 第二次世界大戦 各戦役戦没之英霊供養塔

 

市民文化会館

滋賀県大津市

歩兵第九連隊之跡

碑文

歩兵第九連隊は明治七年此の地に創設せられ同年十二月十八日明治天皇より軍旗を親授された

尓来星霜七十年 此処に修武練胆の将兵幾十万を算し 京滋を守る 西南の役には肥薩に勇戦

日清戦争には遼東に 翌年台湾に出征して武勲を樹てた

日露戦争には南山 遼陽 黒溝台等各地に勇戦 特に奉天会戦には終始力戦 真に屍山血河の

激戦を重ね 将兵の大半を失うに至ったが 克く大敵を撃破し 全軍完勝に多大の貢献をした  

また此の戦役に後備歩兵第9聨隊は旅順に苦闘 殆ど全滅の惨に瀕しつつ要塞攻略に殊功を樹

てた 越えて大正八年シベリアに出征 同十四年第三大隊を当地に残し主力は京都に移駐した

昭和九年より二年間 連隊は満洲に駐屯し 北安 黒河等に在って 北満を固めた 昭和十二年

支那事変が起り 聨隊は北支進攻の後 中支に転戦 同年十二月南京攻略戦に参加し 続いて

翌年五月徐州に戦い 十月長駆大別山を越えて武漢に進んだ

更に大東亜戦争には比島作戦に参加してマニラに進み バターン半島に転戦の後 主力は十九年

秋 レイテ島において米軍主力の反攻を受け 敵を水際に迎撃 或は後方陣地に勇戦力闘したが.

我第一線は相ついで全滅し十二月八日最後の突撃を敢行 連隊長以下全員軍旗と共に玉砕した.

のである

また歩兵第九聨隊を母隊とし 動員編成された幾多の部隊は中支 ビルマ 沖縄など各地に戦い

不滅の武勲を樹てた

今や物換り星移って 在りし日の連隊を偲ぶ俤も薄れつつあるが 祖国を守る輝かしい伝統と歴史

は永久に伝えられなければならない

茲に連隊関係一同相図り 県下有志多数の御協力を得て 由緒ある此の地を史蹟として保存し 

平和の礎石となられた今は亡き戦友への餞とすると共に 国運の隆昌と世界の平和を祈念して  

此の碑を建てるものである

昭和四十二年四月十八日  歩兵第九連隊記念碑建設委員会一同

 

若鷲の碑 大津陸軍少年飛行兵学校跡

若鷲の記

大津陸軍少年飛行兵学校は、太平洋戦争が苛烈の度を加え、その戦域が益々拡大された昭和十七年

十月、航空戦力増強の要請に応じ、東京陸軍航空学校大津教育隊として此の地に開設され、翌十八年

四月、大津陸軍少年飛行兵学校に独立した。

当時十五・六歳の少年たちは、祖国存亡のとき、陸軍航空の期待と栄光の重責を担い、        

「至誠・純真・元気・周到」

の校風のもと、炎熱の朝、酷寒の夕、琵琶湖畔に、長等山麓に、幹部要員として徹底した一ヵ年の基礎

訓練に励んだ。その数、第十五期生から第二十期生に至るまで八千有余人。

ついで、操縦・通信・整備の各上級学校に学び、若鷲となって大空に巣立ち、北辺の空に南溟の果てに

本土防衛のさきがけとなって愛機と生死を共にした。

昭和二十年八月、戦いは終り、これらの出身者、また未だ学業半ばの者は、ともに全国に離散し、本校

もまたその歴史を閉じた。

往時茫々、戦後三十年。教えし者、教えられし者相つどい、かつて青春のすべてを抛げうった思い出深き

この地に、永遠の平和を願って、茲に「若鷲の碑」を建立する。

昭和五十年十月十二日  大津陸軍少年飛行兵学校 関係者一同

 

大津陸軍少年飛行兵学校 第一校歌

翔け集う若鷲 仰げ無敵の操縦 競う神技は燦たり燐たり

いざ征かむ鵬翼 志賀の古都の花匂う ああ畏し五条の聖諭

旨と励まむ 旨と励まむ               

 

翔け集う若鷲 見よや手練の通信 樹つる勲は赫たり赫たり

いざ伸べむ鵬翼 鳰の入江に朝日映ゆ ああ畏し五条の聖諭

旨と励まむ 旨と励まむ               



翔け集う若鷲 誓え無縫の整備 睦べ三技は凛たり凛たり

いざ張らむ鵬翼 長等の山の松青し ああ畏し五条の聖諭

旨と励まむ 旨と励まむ              

 

  

若鷲の碑 大津陸軍少年飛行兵学校跡                             陸軍省 標柱       

 

鎮魂の霊地

更新日:2009/12/13