艦内神社

巡洋艦阿武隈

 

 

艦歴

大正10年12月 8日 浦賀船渠にて起工

大正12年 3月16日 進水

大正13年  月  日 完成したが関東大震災の被害で就役が遅延

大正14年 5月26日 就役

大正14年 6月  日 第一艦隊第三戦隊に編入

昭和 7年 2月  日 第一次上海事変、揚子江警備に従事

昭和 8年 5月  日 第七艦隊旗艦

昭和 9年11月  日 第一水雷戦隊旗艦

昭和13年 2月  日 第二潜水戦隊旗艦

昭和14年11月  日 第一水雷戦隊旗艦

昭和16年11月  日 真珠湾攻撃に参加

昭和17年 1月  日 ビスマルク諸島攻略作戦を支援

昭和17年 5月  日 第五艦隊(北方部隊)に編入

昭和18年 3月  日 アッツ沖海戦に参加

昭和18年 7月  日 キスカ島徹底参戦に参加

昭和19年10月25日 スリガオ海峡海戦

.           敵魚雷艇群の攻撃を受け、魚雷1本が艦首第一砲塔の下に命中

.           戦死者50余名を出し、速力は低下

昭和19年10月26日 午前11時頃、B24爆撃機30機からの高度爆撃

.           直撃弾3発・至近弾4発を受け上甲板の兵員は全滅

.           艦橋の人員も大部分が負傷または戦死

.           機関停止、火災発生

.           阿武隈は停止後も浮いていたが、魚雷が火災により誘爆

午後0時42分、艦首を立てた状態でネグロス島沖に沈没

 

艦内神社

白河鹿嶋神社

所在地  福島県白河市

創建   宝亀年間  

主祭神  武甕槌命  

社格   総鎮守、式内社

 

白河鹿嶋神社

 

海軍元帥東郷平八郎が奉納した『鹿島宮』の額

 

佐世保海軍墓地

長崎県佐世保市

軍艦阿武隈戦没者慰霊碑

慰霊のことば

軍艦阿武隈(5千5百噸級軽巡洋艦)は大正14年5月浦賀ドックにて竣工し数度の改装を行い昭和16年

12月8日大東亜戦争開戦時第1水雷戦隊旗艦としてハワイ作戦に参加

同17年ビスマルク諸島、ポートダーウィン、ジャワ、インド洋作戦

同18年アリューシャン方面作戦、アッツ島沖海戦、キスカ撤収作戦等に活躍

同19年10月25日比島沖海戦に第2遊撃部隊としてスリガオ海峡突入時交戦被雷

翌26日 B24 30機の猛爆を受け勇戦奮闘空しく遂にミンダナオ海に多くの戦友と共に勇姿を没す。

(時刻午後零時42分位置北緯9度9分東経121度54分ダピタンの西北西約180粁)

38年後旧乗組員有志相諮り母港佐世保市東公園旧海軍墓地に参集

軍艦阿武隈の輝く戦歴を記念すると共に祖國の難に赴き名誉の戦死を遂げ今日の日本の繁栄の礎となりし戦

友を永く顕彰せんと欲しその芳名を刻み慰霊碑を茲に建立す

英霊よ軍艦阿武隈よ 安らかに眠り給え

昭和57年10月24日 軍艦阿武隈戦友会会長 元副長 清水芳人 他会員有志



碑文

二等巡洋艦                    

「長良」型の6番艦                

大正14年4月15日浦賀船渠において竣工     

昭和9年11月15日から佐世保に本籍を移籍    

「阿武隈」は、5500トン型軽巡14隻中の一艦  

支那事変時代においては、中国沿岸の警戒・封鎖などに従事

大東亜戦争起こるや、ハワイ海戦、ラバウル等南方占領戦闘、インド洋作戦、アリューシャン作戦などに従

事した。

この間、アッツ沖海戦、キスカ撤収作戦など北方作戦において活躍。

北方作戦に従事すること約2年、第5艦隊旗艦「那智」以下とともに昭和19年6月下旬、横須賀に帰還し、

サイパン奪回作戦の準備にかかる。

しかし、その作戦が立ち消えとなったため、8月に呉に回航して次の作戦に備え訓練を実施して待機。

昭和19年10月25日、比島沖海戦においては第2遊撃部隊に属してスリガオ海峡経由レイテ沖に向かう。

「那智」「羽黒」に続いてスリガオ海峡にさしかかった午前3時20分頃、「阿武隈」は左斜後方に雷跡を発

見したが、避ける間もなく左舷前部に魚雷が命中。たちまち艦首は沈下し、速力は10ノット以下となり落伍

した。この時30名が戦死している。雷撃したのは米魚雷艇第137号であった。

志摩長官は「阿武隈」をそのままにして、残余は「那智」先頭の突入隊形を下令し、26ノットでスリガオ海

峡を突破。時に午前3時30分。この時、レイテ湾では西村艦隊が全滅の悲運に遭っていた。

午前4時半、レイテ突入困難とみた志摩長官は第2遊撃部隊の反転引揚げを令した。志摩艦隊は、しばらく南

下しているうち、北上しつつある1隻の軽巡を認めた。さきにスリガオ海峡入り口で落伍した「阿武隈」であ

る。「阿武隈」は速力が被雷により落ちたが、応急処置によって10ノットに復旧し、応急操舵をもって魚雷

艇と交戦しつつ、敵を求めて再び北上を続け、レイテに向かって突入しつつあったのである。志摩長官は「阿

武隈」に反転を命じ、第18駆逐隊にその護衛を命じた。

第1水雷戦隊司令部は、午前7時19分、「阿武隈」から駆逐艦「霞」に移乗し、志摩艦隊は3つの群に分か

れて退避運動に移る。「阿武隈」の一群は駆逐艦「潮」の護衛のもとにカガヤンに向かう。その後、3度の空

襲を受けたがたいした損害はなく、寄港先をカガヤンからダピタンに変更。午後10時半に到着。ここで徹夜

の応急修理を行い、翌26日の夜明けまでには速力12ノットの発揮が可能となる。

午前6時出港してコロンに向かう。出港後間もなく単発的な敵機・敵潜の攻撃があったが被害はなし。9時4

4分、B−29(引用者=B−24では?)の来襲。その第1波は10時6分に攻撃を開始。「阿武隈」は直

撃弾1発と至近弾数発を受け、その直撃弾は下甲板前部右舷まで貫通して爆発、また至近弾により高角砲台と

機銃台は全滅。搭載魚雷は引火を恐れて発射管装填中のものは射出処理したが、予備魚雷8本の処分準備中に

またもや爆弾が命中。

その破片により3番、4番砲側の装薬に引火し火災を起こした。更に他の1弾はカタパルト左舷に命中し、甲

板を貫いて後部機械室で爆発。このため内側推進軸2本が使用不能。舵もまた故障して操舵不能となった。被

害局限のため後部弾薬庫に注水、後甲板の爆雷も海中に投棄。艦橋直後の魚雷発射管は弾片により旋回不能と

なっているところに、装填中の魚雷頭部に引火。

午前10時37分、3本の魚雷の誘爆により、前部機械室および第4缶室は全壊し、在室員は総員戦死。艦は

停止、電信室の火災は艦橋下付近にまで及び大火災。午前11時頃、中部重油タンクに引火。11時28分、

総員離艦が令せられ、やがて「阿武隈」は左舷後部からその姿を波間に消していった。時に10月26日午後

0時42分、ダピタンの30度37カイリの地点である。乗組員のうち艦長以下238名が駆逐艦「潮」に救

助された。

碑は昭和57年10月24日に建立。戦死者262名を祀る。

 

鎮魂の霊地    連合艦隊

更新日:2014/06/21