たなばた空襲

 

山梨県内の空襲

            昭和20年 5月19日  峡西、峡南地区の山中に爆弾を投下、負傷者数名

            昭和20年 6月 9日  甲府市国母地区の田圃に爆弾一発投下、被害なし

            昭和20年 7月 7日  甲府空襲(たなばた空襲)

            昭和20年 7月10日  大月町、猿橋町に空襲、工場一棟が被害、死者1

            昭和20年 7月30日  南都留郡、中巨摩郡、南巨摩郡増穂町に空襲、死者16名

            昭和20年 8月 1日  北都留郡、東八代郡に空襲、工場一棟全焼

            昭和20年 月13  大月市、南都留郡に空襲、死者54名

 

甲府空襲(たなばた空襲)

昭和20年 7月 6日深夜から7月 7日未明にかけて、甲府市を中心に西山梨郡・中巨摩郡・東八代郡・

東山梨郡の13町村がB29重爆撃機138機の編隊による大規模空襲を受けた。

 

            7月 6日 午後11時23分頃 空襲警報が発令

            7月 6日 午後11時43分頃 焼夷弾13発が相川地区塚原町慶音院に投下

            7月 6日 午後11時45分頃 二度目の空襲警報が発令

            7月 6日 午後11時47分頃 愛宕山に照明弾が1発投下

            7月 6日 午後11時50分頃 甲府市全域において焼夷弾を用いた絨毯爆撃が開始

            7月 7日 午前00時00分頃 知事官舎及び甲府市役所が炎上

            7月 7日 午前00時30分頃 山梨医専附属病院が炎上

            7月 7日 午前01時45分頃 空爆停止

            7月 7日 午前02時20分頃 空爆警報解除

 

この甲府空襲は、7月6日から7月7日未明にかけて発生したため、「たなばた空襲」とも呼ばれている。

6日夜、子供たちは七夕の短冊に願い事を書いていたことだろう。当時、甲府市は東京からの疎開学童

も多く、遠く離れた両親や家族との再会を願った子供たちも多かった筈である。しかし、子供たちの夢は

無残にも打ち砕かれた。

 

被害戸数18,094戸、甲府市は市街地の74%乃至79%が灰燼に帰した中、連隊司令部や兵舎は無

傷であったが、消火に駆けつけた兵士はごく僅かであったという。

甲府市郊外にあった陸軍玉穂飛行場からは空襲が始まってから終わるまで遂に一機の迎撃機に飛び立

たず、一発の対空射撃も行われなかった。

又、栄和高等女学校に駐屯していた陸軍兵士は、ただうろうろするだけだったり、中には逃げ出す兵士も

いたという。

 

空襲による死者 1,127名(男性499名、女性628名)

 

当日の大本営発表  『我々の損害は軽微』        

 

一蓮寺

山梨県甲府市

  

礎(いしずえ)地蔵

説明文

第二次世界大戦末期の昭和二十年七月六日夜半より七日払暁にかけ当市は大空襲を受け焼土と化す

殊に当地にて死せる人夥しく三百余体を当山境内にて荼毘に付し当所に埋葬す

終戦後間もなく市営墓地に改葬せしも当時の惨状誠に忘れ難く跡地に篤心者に依り慰霊の地蔵尊が建立され

今日に至りしと謂う

以来五十有余年堂宇等の損耗殊の外激しく茲に整備改築を発願し有縁の士の協賛を基に是を成就せり

平和への礎となられたる諸精霊への慰霊と報恩の深心を以て茲に いしずえ地蔵尊 と称し奉ることとせり

冀くは向後参詣の諸士には平和護持倍増の志を以て諸精霊の冥福と謝徳の誠心を賜らんことを

平成十一年十月仏日  一蓮寺

 

つつじが崎霊園

山梨県甲府市

戦災殉難者無縁供養碑

碑文

昭和二十年七月六日夜甲府市は戦災でたちまちのうちに全市の八割が焦土と化し七百七十五人の尊い市民

の命が失われた。その際に三百七十三の遺体は引き取り手がなく、一時太田町公園に仮埋葬した。昭和二十

五年四月この遺体を火葬したが、そのうち二百十三の遺骨は遺族の手に引き渡され、残り百四十の遺骨は尓

来十年なお無縁の仏として岩窪町大泉町に安置されてきた。その無縁の仏を新たに設けられた甲府市営公園

墓地に迎え戦災殉難者のみたまの永遠に安らかんことを心から祈念して供養碑を建立した。

昭和三十四年八月十日           甲府市長 鷹野啓次郎

 

都市空襲

更新日:2007/05/14