タイトルのない夏 Trinity 両谷承
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「だからさ、シンジくん」
三十を過ぎたばかりのバイク・ショップのオーナーがどこか楽しそうな表情で、それでも口調だけは真面目にたしなめる。
「こいつのエンジンは、もともと回らないように出来てるんだ。国産のでっかい四発なんかとは、はなっから勝負になんかならないんだよ」
「知ってるよ。でも、こいつだってオートバイなんだよ。速く、走らなきゃ」
気負いなく云ったシンジの言葉に、オーナーはなぜか深くうなずいた。鳥の羽根のキー・ホルダーがついたイグニッション・キーをシンジに手渡してくれる。
「それは、わかるけどさ。とにかく、四千回転以上回しちゃ駄目だ。今回だってたまたまパーツがあったけど、今度壊したらいつ直るか分からんぞ。あんまり派手にアクセル開けたりしたら、クランクケースが割れちまうことだってあるんだからね」
「気をつけてみるよ。ジェントルに、ね」
「まあ、ね。だけどシンジくん、人、変わるからなあ。ま、長く乗りたいんだったら大事にしてやんなよ」
「そうだね」
ショップのガレージからハーレイを押し出し、歩道でエンジンを掛ける。起こすな、とでもいいたげにVツインエンジンが不機嫌そうな身震いをして目を覚ます。
アイドリングが安定しだすのを待って、シンジはバイクにまたがる。ギアを踏み込んで、シンジとハーレイ・ダヴィッドソンXLSロードスターは青梅街道の混雑のなかに飛び込んで行く。
吉祥寺で一戸建てに住んでいる大学生というと、世間のひとたちはかなりの金持ちを連想するらしい。それが三部屋しかない木造の平屋でも、だ。
国立大学を定年になった父親が母親を連れて広島の田舎に引っ込んでしまったのは、シンジが高校に入った年だった。シンジと一緒に住んでいた十二歳年上の兄が転職先の外資系証券会社の本社に配属になってニューヨークに引っ越してしまったのが去年の夏。四月にはシンジは銀行口座からなけなしの金を引き出し、世帯主として武蔵野市役所に固定資産税を払いにいった。なんだかおかしな気分だったのを覚えている。
がらんとしたガレージに、シンジはロードスターを押し込む。グラブを外し、ヘルメットを脱ぐと、汗が吹き出た。ガレージには屋根があるのに、暑さはかんかん照りの外とあまり変わらない。
玄関のドアが開いていた。ブーツを脱いで上がり込む。家の中はさらに暑い。台所の冷蔵庫から缶ビールを出して、一息で半分ほど呑んだ。こう気温が高い日が続くと、どうもいけない。三日前に一ダース買い込んだミラーが、もう残り二本になっている。
奥の部屋から大きなあくびが聞こえた。
「ユカリさん?」
返事の代わりにふすまが開いて、スウェット・スーツ姿のユカリさんが姿を見せた。
「おかえりなさい」
「ただいま。ユカリさん、いつからいるのさ」
「今、何時?」
「四時半」
「じゃ、三時間くらい前かな。あ、シンジくんビールなんか呑んでる」
ユカリさんは台所に入ってくると、自分の分のミラーを冷蔵庫からひっぱりだした。寝起きにビール。ユカリさんはいつもこんなふうだ。
ユカリさんについて、シンジはあまり知らない。兄の恋人かなにかで、シンジが高校二年の頃からこの家に出入りしていたこと。この家の鍵を持っていて、今でも何日かおきにこの家に泊まっていること。シンジより五つほど年上らしいこと。シンジが知っているのはこんなところだ。同じベッドで寝たこともあるが、ユカリさんは何も話さなかった。
「シンジくん、どっか旅行でも行ってたの?」
「別に。どうかした?」
「うん。何度かこの辺りを通ったけど、ハーレイが無かったから」
「修理に出してたんだ」
「そっか」ユカリさんはあっという間に飲み干してしまったビールの缶を握り潰した。「ねえシンジくん、晩ご飯食べる?」
「まだ、いらない」
「今すぐじゃないよ。きみの分もつくるからさ、一緒に食べよう」
「じゃ、そうしようかな」
シンジが答えると、ユカリさんは奥の部屋――もともとはシンジの兄の部屋だ――から財布を持ってきて、そのままの格好で買物に出掛けた。
ユカリさんは日頃、何をして暮らしているのだろう。不思議といえば不思議だが、あえて訊ねてみる程の興味はなかった。水商売か、コール・ガール。おおかたそんなところだろう。
玄関先においてもったバケツを手に、シンジはガレージに向かう。ハーレイを、洗ってやらなきゃ。
シンジは、ハーレイが嫌いだ。
シンジのロードスターは、兄の友人に押しつけられたものだった。革のベストの背中にチーム名のワッペンをくっつけてこのロードスターに乗っていた男は、巨大なヤマハのオフロードバイクでオーストラリアに向かって出発したきり連絡がない。
渋滞している吉祥寺通りを、シンジはゆっくりと南へ向かっている。狂暴だが頭の悪い猛獣のようなうなり声を、股間のVツイン・エンジンが上げている。こういうときには力がありあまって仕方がないようなのに、東名や第三京浜では時速百マイルにも届かないうちにあちこちががたぴし悲鳴を上げ始める。こんな身勝手な乗り物もない。
中央線のガードをくぐると、ゆるい右カーブになっている。右側に見える「スラム・ティルト」に向けて、シンジは対向車線を横切った。「スラム・ティルト」の脇の路地で、カズが誰か知らない男と向き合って立っている。
ハーレイを「スラム・ティルト」の前の歩道に停めると、シンジは路地に向かった。
壁を背にしてカズと対峙しているのは、ダブルのスーツ姿の若い男だ。ウイング・チップの靴を履いて、髪をオールバックに撫で付けている。近付くと油臭い匂いが漂ってきそうなタイプだ。
「わざわざ、こんなとこまで連れてきてさ。云いたい事があるなら、早くいいなよ」
余裕を見せようとする意図が見え見えの軽い口調で、男が云う。身長で十センチ、体重で二十キロはカズより大きいだろう。
「あの女の子は、ぼくの知り合いなんだ。あんまり失礼なことはやめてほしいな」
真面目な調子で云うと、カズは右手をまっすぐ伸ばして指先で男の鼻の頭を弾いた。
男の形相が変わる。いきなり右手で大振りのフックを出した。ボクシングのクラウチング・スタイルになったカズはからかうようなスウェイで男の拳をかわす。
右の素早いジャブがふたつ。ひるんだ男の顔の真ん中に、カズの左ストレートがめり込んだ。男がよろける。両手で鼻を覆う男の口元に、カズのハーネス・ブーツのかかとが飛んだ。
鈍い音がして、男は横ざまに倒れた。丸まる男の身体を爪先で蹴って、仰向けにする。その鳩尾を、カズは踏み付けた。ごぼっ、と声を出して、男が血と折れた歯を吐き出した。
「ねえ、ぼくの云いたい事は分かった?」
優しげに云いながら、カズは男の脇腹を軽く蹴り続ける。二度、三度。
「その辺にしとけよ。死んじまうぜ」
見かねたシンジが声を掛ける。振り向いたカズはシンジの姿を認めると、嬉しそうに笑顔を見せた。
「なんだシンちゃん、見てたんだ。――これくらいじゃ死にやしないよ、多分」
照れ臭そうに云うと、スーツ男の事なんか忘れてしまった様子でシンジに駆け寄ってくる。
「あいつ、どうかしたのか」
「ちょっとね。下品な奴って、ぼく嫌いだからさ」カズの口調は屈託がない。「身体で教えなきゃ分かんない奴って、いるじゃんさ。更正の機会は与えてやんなきゃ」
云いながらぶっ倒れたまま咳き込んでいる男に目もくれないところを見ると、カズはもう関心を失ったようだ。所詮は他人の喧嘩だから、シンジもそうこだわる気はしない。
カズが「スラム・ティルト」の扉を開けて、シンジを先にくぐらせた。店内には女の子がひとりだけ。マスターはちらりとシンジに目を走らせると、すぐに洗い物に戻った。
「なんだいマスター。『いらっしゃい』ぐらい云ったっていいだろ」
「つけで飲み食いする奴とその仲間は、客扱いしないことにした」
流し台から顔も上げない。シンジはストゥールに座る。
「俺はいつも現金で払ってる」
「じゃ、キョウにもそうするように云っときな。それともあいつのつけ、払うか」
「やめてくれ」
カズがくすくす笑いながら、シンジと女の子のあいだに座った。
「ねえカズくん、大丈夫だった?」
女の子が、なぜか心配げにカズに訊く。
「さっきのナンパ野郎? 大丈夫だよ」
「だって、なんか気が短そうだったし」
なるほど。たしかにシンジの目にも、カズはこれほど気が短いようには見えない。知らなきゃ、だまされるだろう。
「平気だって。あのさ、友達に無礼なことする奴って、やっぱり許せないじゃん。ねえ、マスター」
マスターが手を動かしながら、顔を上げる。
「そうやっておまえは、うちの客を減らしてくんだな」
「六時過ぎたら客は自分で選ぶ、って云ってたのは何処の誰だっけ。それとも、この店にはああいった客がふさわしいっての?」
マスターの手が止まる。シンジは思わず吹き出してしまう。
「――シンジ。オーダーがまだだ」
睨まれてしまった。
「ごめん。ラム、下さい」
云いながら、シンジは女の子が自分を見ているのに気付く。
「こんばんは」
ずいぶん整った顔立ちの女の子だ。会ったことが、あるんだろうか?
「どなた、でしたっけ」
云って、シンジはカズを見た。カズはいつもながらにたついている。
「彼女は『エイリアン・スター』のレコード・ホルダーだよ」
その言葉で、シンジはその女の子を思い出した。いつだったかの夜、あのマシーンで初めてのリプレイ・ポイントを出した子だ。
「ああ、そうか」
「ミキ、っていいます」女の子はどこか照れたように自己紹介する。「未来の未に、世紀の紀。シンジくん、だったよね」
名前まで覚えられてしまっている。どうも変な気がする。
「まこと、って書いて、何だか難しい字を書くんだよね」カズが人の名前をわざわざ説明してくれる。「ぼくには書けないや」
「大きなお世話だ」
手元に置かれたラムのロックに口をつける。
「ねえ、おもてに停まってる大きな音のバイクは、シンジくんのなの」
「そうだよ」
「ハーレイ・ダヴィッドソン君って云うんだって」また、カズが割って入る。「ねえシンちゃん、漢字でどう書くんだっけ」
カウンターの中で、マスターが爆笑した。ミキはきょとんとしている。
「馬鹿野郎」
シンジがぼそりと云うと、ミキにも冗談だと分かったらしい。見せた笑顔はシンジの目の前に置かれたロック・グラスと同じくらいに涼しげに見えた。
「いいな、かっこいいよね」そういわれてもシンジとしては困る。「今度、後ろに乗せてよ」
「やめといた方がいいと思うな。乗り心地、悪いぜ」
「そう? でも、乗ってみたい」
「考えとくよ」
シンジはラムのグラスを手に立ち上がる。
「どこ行くのさ、シンちゃん」
「ミキ、って云ったっけ? そっちのお嬢さんのレコードを塗り替えてくるよ」
わざとミキの方を見ないで、シンジはカズに云った。
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