テレキャスター・ダンシング
Monkey Strut
両谷承

七へ戻る。九へ進む。



 神経質そうな東洋史の教授が靴を鳴らして階段教室を出てゆく。尚美はテキストとルーズ・リーフのバインダーを閉じて、リュックサックに突っ込んだ。

 にぎやかに話しながら、学生たちが教室の出入口に流れてゆく。和も取っている授業のはずなのに、その姿はない。例によって部室にいるのだろうか、とちょっと考えて尚美は少しヘビィな気分になる。昨日の今日で、しかも今日はセッションの日だ。

 和に会えば、きっと何か言われるに決まっている。和の皮肉やあてこすりにはいいかげん慣れっこになっているからいつもの尚美なら今さらどうということもないのだけれど、昨日の晩のおかしな気分が未だに尾を引いていて、いつものようにまぜっ返せる自信がない。いろんな感情でふくれ上がった尚美の頭ほんのジャブ程度の言葉にもはじけてしまいそうだ。

 やくたいもない考えが、頭の中の同じ所を回転木馬みたいに堂々めぐりしている。いつまでもこんな所に座っていても、いいアイディアなんて浮かんで来ない。意を決して、尚美は立ち上がった。

 なるようになれ。左肩にリュックサックを下げ、右手にギター・ケースを持って、尚美は教室の階段を降りてゆく。

 思ったとおり、C=二八の窓のすりガラスからは明かりが透けている。物音はしない。尚美はドアの前でしばらく立ちつくしていたけれど、ドアは開こうとはしなかった。

 がたのきているドアノブを回して、尚美は建てつけの悪いドアを開く。深呼吸をひとつして、尚美は部室に入った。

 誰もいない。拍子抜けして、尚美は全身の緊張感が抜けてゆくのを感じる。おんぼろテーブルにリュックサックを置きながら、尚美は部室の中のどこかから低い、電子ブザーのような音が聴こえて来るのに気付いた。

 ベース・アンプに、和の黒いプレシジョン・ベースが立てかけられている。電源が入りっぱなしであることを示すアンプの赤いランプが光っていた。そのせいで、フィードバックが起きてアンプのスピーカーがジージー鳴っていた訳だ。

 アンプの電源をオフにすると、尚美はシールド・コードのジャックをベースから外した。ベースをいつもの定位置−−錆だらけのロッカーの陰−−に置く。どうやら、和はここにいたらしい。ビールでも買いに行ったのだろうか。尚美は少し安心したような、つまらないような微妙な気分で、ストゥールに腰を下ろした。

 ギター・ケースを開け、リュックサックから昨日、和に手渡された楽譜を取り出す。ギターをアンプにつながないまま、尚美はメロディだけを拾って弾いてみた。

 『トウェンティ・フライト・ロック』、和が歌う予定だった『ヴィクトリア』、『ステイ・ウィズ・ミー』−−今日、セッションで演る事になっていたどの曲とも違う。新しい曲を試してみる予定も、今日はなかったはずだ。

 五線紙に書き込まれているのはメロディとコード・ネームだけなので、尚美は繰り返し同じ音符だけを追う。少なくとも、一度も聴いた事のない曲だという事は分かった。

 ギターでオープン・コードを鳴らしながら今度はメロディをハミングしてみる。メジャー・キーの単純な旋律が、思いのほか複雑なコード進行に乗っている。リズムとアレンジ次第でどんな風にでもプレイできそうな、どこか淋しげな澄んだ明るさを持った曲だった。

 和と会った時の気まずさを心配していた事などすっかり忘れて、尚美はハミングや口笛でメロディを取りながら楽譜の曲にいろんなフレーズを乗せてみる事に熱中していった。

 どれくらいの時間、尚美はひとりでギターを弾いていたのだろう。ドアの開く引きずるような音で、尚美は我に返った。

「悪い、また遅れちまったよ。あれ、和は?」

 きょろきょろしながらハルさんが部室に入って来る。

「まだ、来てないんですよ。−−ハルさん、今、何時ですか」

「もう六時半だよ。三十分も遅れちまったから、あわてて来たのに」

 尚美も気付かないまま、約束のセッション開始の時間をとうにすぎてしまっていたらしい。ハルさんはジーンズの後ポケットから引っぱり出したバンダナで額の汗をぬぐいながら、ストゥールのひとつに座る。

「しょうがねえな、和の奴。まあ俺も、ひとの事は言えないけどさ」

「昼間は、いたらしいんですけどね。ベースアンプの電源が、入れっぱなしになってましたから」

「ふむ。別に逃げかくれすることもないだろうに、情けねえ奴だな」

「え?」

 尚美が聴きとがめる。ハルさんは思わず口をすべらせた、といった顔をして、それからすまなそうに続けた。

「−−昨日の晩さ、和がうちに楽譜を置きに来たんだよね。きみたちと会った後、さ」

 尚美は少し驚いた。でも、考えてみるとそれほど意外な事ではない。

「−−何か、言ってましたか」

「少しだけ、聴いてる。和の野郎、感情的になる前に無口になる癖があるからさ。だけど、それだからってセッションをすっぽかしてもいい理由にはならねえよ」

 尚美は何も答えられない。尚美自身が原因なのだから。−−様子を見てとってハルさんは尚美に、この街にももうすぐ訪れるはずの夏の太陽のような笑顔を見せた。

「この分じゃ、セッションはキャンセルだな。尚美ちゃん、今夜予定ある?」

「別に、かまわないですけど」

「じゃさ。酒、飲みに行こうよ」

「でも、意外だな」

「何が?」

「ハルさんってあんまりお酒飲めないんじゃなかったんですか」

 小さな、シンプルなつくりのバー。ガラスのドアを開けて、尚美とハルさんはカウンターを前に座った。

「まあ、強い方じゃないね。だから酔っぱらっちまうまでの何杯かは美味しいのが飲みたいし、信用できるバーテンダーのいる所でしか飲まないようにしてる」

「信用できるバーテンダーって、僕の事かな。宮沢くん」

 ハンサムなバーテンダーが尚美たちの前に立った。

「もちろん」

 ハルさんは自分のためにマティーニを頼み、尚美には名前を聴いた事もないカクテルを選んでくれた。

 バーの中は心地よい薄暗さが保たれていて、決して長くはないカウンターには客が鈴なりになっている。控えめな、何組かのカップルの会話が隣の客に聞こえないようにするのがやっと、といった音量で、モダン・ジャズが流れている。緊張感と居心地の良さがこんなふうに同居している場所は、尚美にははじめてだった。

「どうしたの、落ち着かない?」

「こんなところ、初めてなんです」

「きみの恋人は、連れてってくれないのかな」

 上岡さんの事を言われているのだ、と気付くまでに少し時間が掛かった。バーテンダーが優雅な仕草で、尚美たちの前に銀のカクテル・グラスを二つ、並べる。

「和くん、なんか言ってましたか」

「少しだけね。きみと恋人が二人でいる所を見かけて、少しがっかりしたって」

「がっかりした、ですか?」

「そう。えらく傷付いた表情でさ。あんなキスなら俺の方が上手い、だって」

 和らしい言い方だ。尚美はグラスを手に取る。深い暗赤色をした液体を口に含むと、微妙な甘さが舌に乗った。

「もう、会えないかな」

「和と? そんなことはないと思うけどね」カウンターに肘をついて、ハルさんはマティーニを口に運ぶ。「今のバンド、潰したくないだろ」

「もちろん、です」

「和も、そうだと思うな。あいつにとっちゃ仲間をなくすのは女の子を手に入れそこなうより辛いはずだし」

「仲間、ですか」

「うん。あいつにとっての尚美ちゃんてまず、何よりも仲間なんだろうと思うしね。和が何言っても、きみはまっすぐ受け止めてやってたろ」

「そうかもしれない」

 それは尚美自身の、自分自身に対する挑発でもあったのだけれど。

「あいつが人づきあい下手なのは、見ててもわかると思うけどさ。−−和は、自分が弱いって事をいやになるほど知ってるんだよ」

「弱い、って」

 とうていそんなふうには思えない。むしろ図太すぎるくらいの神経の持ち主に見える。

「俺は中学ん頃から、あいつの事知ってるけどさ。あいつ、ひとと距離を取るのが恐ろしく下手くそなんだよ。誰かを好きになったら相手が男でも女でも無制限に信じちまうし、ちょっとでも相手が期待外れな事をするともう、すぐ裏切られたと思って傷付いちまう」ハルさんはマティーニのオリーブを口の中に放り込む。「そんなの、普通に暮らしてればいつだってある事だろ? だけどあいつは誰かに思い入れたらもうブレーキが利かないんだよ。そのせいで自閉症寸前まで行った事もある。いつも結局、自己嫌悪に行きつくんだよ。あいつの場合」

 そういう感情は、尚美にも分かる。けれど友人に少し失望したくらいで自己嫌悪に陥ったりはしない。

「その反動なのかな。高校に入った辺りから和はほとんど他人を寄せつけなくなっちまったんだ。傷付くのが恐くて他人に無関心になろうと努力しているうちに、それが癖になっちまったんだな。ああいう失礼な態度取ったりするのも、俺はそのせいだと思うね。自分をさらしたくないんだ。情けねえ奴だよ」

 ハルさんは頬杖をつく。グラスの底に沈んだチェリィを残して、尚美はカクテルを飲み干した。

「でもハルさん。それって違うと思う」

「違う、って?」

「だって和くん、あたしにいろんな事を伝えようとしてくれてる。それが、あたしにはわかるから」

「−−そうか」少し考え込むような表情で、自分に向かって話しかけるようにハルさんは言った。「きみは、奴のギター弾き、だもんな」

「ハルさんだって、和くんのドラマー、でしょ」

「その通り。奴は、帰って来るに決まってるよな」

「ベースがいなきゃ、セッションはできないもの」

 尚美の言葉に、ハルさんは静かなバーの空気にそのままとけていってしまいそうな微笑を浮かべると、バーテンダーにもう一杯のマティーニをオーダーした。

「そちらのお嬢さんは?」

「今とおんなじの、下さい。−−ねえハルさん」

「今度はなんだい」

「男のひとなら、分かるかもしれないって思ったんですけど。車の助手席の日よけに鏡を取り付けるのって、どんな意味があると思います?」

「サンバイザーに鏡? よく、女性向けのモデルについてるけど。バニティ・ミラーっていうんだよ。ほら、女の人って車の中で化粧なおしたりするよね」リキュールの栓を外しながら、バーテンダーが教えてくれる。「まあ、普通は運転席側についてる装備だけどね」

「装備じゃなくて、あとから付けてある場合はどうなんでしょうね」

 それに、上岡さんの車はもちろん女性向けのモデルではない。太いタイヤと高性能エンジンのスポーツ・モデルだ。

「それ、例の彼の車?」

「彼っていうか、まあ−−」

「きっとそれは、彼が尚美ちゃんのためにつけてくれたんだよ」ハルさんがちらりとバーテンダーに目くばせする。バーテンダーは軽くうなずいた。「俺も和も、きみが化粧した顔なんて見たこともないけどね」


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