Tales from "Blue Cat" Episode #2

Portrait de Maitresses

両谷承


 美述部に所属している大学の友人に、定期展覧会の案内を押し付けられた。仕方ないので僕は旦那を誘うことにした。

「美述部?ああ、時々大莫迦なオブジェを造って学内のあちこちに転がしている連中か」

 旦那は電話口で面倒臭そうな声を出したけれど、結局は一緒に展覧会に行くことに同意した。僕たちは土曜の午後に美術館で待ち合わせし、一時間と少しをギャラリーで潰した。それから僕たちは旦那のカルマン・ギアでライムやレモン、エールだのを仕入れて、”青猫亭”へ向かった。


 夕食を済ませてマーテルのVSOPを舐めていると、旦那がテーブルの上にいろいろ、ごちゃごちゃと並べはじめた。ミキシング・グラス、バー・スプーン、シェイカー、メジャー・カップ。どうやら、いつもの癖が出たらしい。

 以前から旦那は、ダンディズムの極致はバーテンダーにこそ体現される、という事を持論にしている。夜という非現実的な時間、バーという非日常的な空間にいて、それぞれの屈託だのトラブルだのを持ち込んでくる男たちや女たちの相手を寡黙にスマートにこなす───なんだかステレオタイプすぎて莫迦らしいような気もするけど、とにかくそういったイメージが彼をバーテンダーの真似事へと駆りたてるらしい。とはいえ元来がお世辞にも寡黙とはいえない質だし、客が僕ひとりと来ては風情も何もないのだが、僕としては結構悪くないカクテルが呑めるので何も云わないことにしている。

「さて、何にしましょうかね」

 仕立てのいい白いシャツに、ブラウンのタイ。いでたちだけはなかなか小粋なバーテンダーに見える。

「そうだね、ホワイト・レディでも頂くか」

「この暑い夜に、ねえ」

「なんだよ。おかしいか」

「おかしかないけどな。まあ、いいか」

 文句を云いながらも旦那は本物のコアントローと手で搾ったレモンを使ってホワイト・レディをつくってくれた。飲んでみる。

「どうだい」

「ちょいと、優しくないか」

「そうかな」旦那は自分のために、グレナディンの入ったダイキリをつくりはじめた。「年期が足んねえか。けどさ、───うちの大学の美術部って、ああ云った古臭いことをやってたんだな」

「思ってたより、面白かったけどね」

「期待が大きすぎたのかね」旦那はダイキリを一口飲んで、顔をしかめた。「あいた、少し甘すぎた。───絵っていえばさ」


「昔、香港にいたことがあってね」

「香港?」

「そう。ホンハムに汚いアパートを借りて、半年ばっか住んでいたんだ」

 いったい、この男は幾つなんだろう。

「何してたんだ」

「別に。ぶらぶらと、仕事も勉強も観光もせずに貧乏暮らししていた。毎日、中環の外れの珈琲舗で時間を無駄にしてたね」

「優雅なこって」

「優雅なもんかよ。別に半島酒店に滞在してた訳じゃないんだ。こういった代物だって」旦那はダイキリを干すと、ロンリコ一五一で───こんなラムでダイキリをつくる奴なんか旦那だけだろう───グラスをゆすいだ。「週末に二杯も飲れたらいい方だったね。次は何を飲む?」

 旦那は僕のグラスが空いているのを目ざとく見付けて云った。要は、カクテルを作りたくて仕方がない訳だ。

「涼し気な奴だったらいいんだろ? じゃ、ボストン・クーラーでも貰おうか。───頼むから、そいつじゃなくてハバナ・クラブでこしらえておくれ」

 旦那はにやりと笑って手にしたロンリコのボトルを残念そうにテーブルに置くと、後ろのキャビネットからハバナ・クラブを出した。レモンを半分に切って、輸入物のシュワプスのジンジャエールと混ぜる。残りのレモンとタンカレーで、旦那は自分のためにトム・コリンズを仕立てた。

「今度はどうだ」

「いい出来だよ」

「ありがとう。───ホンハムのアパートの隣に、日本人の画学生が住んでいてさ。すぐに挨拶する程度にはしたしくなった」

「なんでそいつは、香港なんかにいたんだ」

「さあな。本土で食いつめたんだろ」

「何云ってんだ。戦前の上海の話してんじゃないんだからさ」

「知らねえよ。訊いてみたこともないしさ。だいたい、そういうあんたはなんで香港なんかにいるんだ、って訊ね返されたら答えようがない」

「これから満州に渡って鉄道でひと山当てるんだ、とでも云ってやりゃいいだろ」

「俺は甘粕じゃねえんだよ。そのうち俺と奴とはだんだんに親しくなっていって、互いの部屋に出入りしてたまに一緒に安酒をかっくらうような仲になった」旦那はトム・コリンズをあおって、それなりに冴えた仕草で煙草に火を点ける。「そいつの部屋ってもがまた、日本から香港へ流れて来た赤貧の画学生のアトリエ、ってのの古臭いイメージを二十世紀という時代背景の下で神の赦し給う限り忠実に再現した感じなんだな。なにしろあちこちに絵具がへばりついて汚ねえし、着るもんは放りっぱなしだし、酒びんは九龍から香港島まで橋を渡せそうなくらい転がってるしさ」

「どんな絵を描いてたんだ」

「ホンハムの風景とか、天星碼頭とか、雙層巴士とか、小姐もけっこう描いてたな。たいしたもんじゃないんだけど、油絵なのに水彩みたいな風情があってね。悪くなかった」

 旦那の手になるボストン・クーラーは、かなり強い。それを口に含みながら、僕は旦那の言葉を待った。

「ところで、その頃俺は中環の珈琲舗に通ってた」

「聴いたよ」

「ちょっとしたお目当てがあってね。十七、八くらいの、ちょっと綺麗なウェイトレスがいたんだ。名前は何とか云うんだけど、俺は勝手にスージィ、って呼んでた」

「スージィ・ウォンか。ミーハー丸出しだな」

「ふふん。その娘はその店の親父の娘でね、この親父が中国製スタン・ハンセンって感じなんだ。箱入りでさ、親父に気に入られなきゃちょっかいも出せないくらいだった」

「あんたは上手くとり入った訳だ」

「まあね。───ある日、俺は画学生をその珈琲舗につれてった。そしたらそいつはスージィに一目惚れしちまってさ。是非絵のモデルに、って前後のみさかいなく口説きはじめたんだ。毎日店に通って、家まで追っかけて」

「真面目な奴がべた惚れすると怖いんだ」

「その通りだ。で、次は何にする?」

 この男は僕を酔い潰れさせる気らしい。「じゃ、我がニャム・トン・ブンに敬意を表してシンガポール・スリングを頂くか」

「今夜の”青猫亭”はラッフルズ並に暑いからな」キャビネットからチェリイ・ヒーリングを出して、旦那はカクテルを造りはじめる。

「ところが唐突に店に顔を見せなくなってさ。心配だから部屋に行ってみると、ひとりでしょんぼりと酔っ払ってんだよな。片目に眼帯してて、訳を聴いたらスージィの親父さん相手に熱弁を振るった揚句の名誉の負傷だってんだよ。あんまり意気消沈してるもんで、仕方ないから慰めてやった。絵描きたるもの、時には片眼になってみるべきだ、ってね」

「また詭弁だろ」

「方便ってもんさ。我々の眼は平面しか見ていない、立体に見えるのは遠近って錯覚によるものだ、画家という人種はまやかしの三次元を平面に移し取ることによって、真の美、片眼による美を現出させるものだ、云々とね」

「相変わらず、大したもんだ」

「ありがとう。そしたら奴は急に元気になってさ、翌日には全身───まあ、右手以外はね───こぶだらけになりながらも親父さんを口説き落としちまった。それからは毎晩、スージィを部屋に連れ込んでた」

「妬けただろ」

「まさか。奴は多分、本当に絵を描いていただけだよ。ふた月ぐらい通っているうちにスージィの方も少しづつ情が移って来たみたいで癪だったけどさ、でもあんな妙な取り合わせもなかったね」旦那は二杯目のトム・コリンズをつくる。「お互いぞっこんなんだけど、画学生はスージィを美神かなんかみたいに思っているもんで、まるで恋愛にならないだな」

「微笑ましいじゃないか」

「だけどそのうち画学生を見掛けなくなってね。部屋には鍵が掛かってるし、若干気にしてたら、そのうちスージィが俺の部屋を訪ねて来て泣きじゃくるんだ。画学生がいなくなった、って」

「辛いところだな」

「伊達男の役まわりだろ。俺はスージィをなだめてから、アパートの管理人に画学生の部屋を開けてもらった」旦那は立ち上がる。「奴はいなくてね。代りに絵だけがあった」

 旦那は部屋を出ると、紙包みを持って戻って来た。包みをほどく。中から出てきた油絵には、中国人の少女のはかなげで美しい横顔が、どのような技法によるものか信じ難い立体感と共に描かれていた。

「これは───ちょっとしたもんだな」

「片眼で見てみな」

 旦那の云ったとおりにすると、画面に不思議な変化が起きた。情景は同じなのだが、テーブルの前の椅子に座っているのは少女ではなく、不精髭の若い男なのだ。テーブルにはさっきまで見当たらなかった、残り少ないバーボンのボトルが置かれている。

「彼は、自らをその絵に表現した訳か」

 僕が両眼に戻って絵姿美女を眺めながら云うと、旦那は笑った。

「彼は、絵の中に逃げ込んだんだよ。生身のスージィと、その想いを恐れてね。その証拠に、初めてこの現象に気付いた時にはバーボンは半分以上残ってた。───なあ、彼にウィスキーを差し入れたいんだけど、どうすりゃいいだろうね?」


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