Tales from "Blue Cat" Episode #1

La Belle Dame Sane Merci

両谷承


 あまり旧い付き合いじゃないけれど、僕にはひとり、奇妙な友人がいる。

 年は僕より二つ三つ上だろう。彼の話ではどうやら僕と同じ大学に在籍しているらしいが、学内で一度も会ったことがないし、どの学部なのかも知らない。

 そもそも初めて会ったのはいつで、どういう縁だったのかが、おかしなことにまるで思い出せない。気が付いたら僕は彼を「旦那」と呼んでいたし、僕の事を彼は名前で呼んでいた。彼にもきっちりした姓名があるのだけれど、とりあえず僕は彼の事を、旦那、と称することにする。もっとも彼は、「青猫亭主人」と書かれた方が嬉しいだろうけれど。

 僕の街は巨大な貿易港と小さな山脈の間に挟まれて、東西に細長く伸びている。住宅はおおむね、北側の山沿いに建てられている。だから、他人の家を訪ねる時には都合いつも坂を登り降りすることになる。街外れの海岸近くで潮風に晒されている僕の家から彼の「青猫亭」までは、一時間近くだらだらと続く登り坂を歩かなければならない。

 坂道は小さな繁華街を抜け、住宅地を横切り、勾配を強くしながらゴルフ場の傍を通り、アメリカ人の宣教師夫婦が営んでいる質素な教会に突き当たる。その二軒隣が彼の「青猫亭」だ。

 もとは、在野の哲学者だか文筆家だった彼の伯父の閑居していた家を、大学進学に当たって譲り受けた、と旦那は云う。小さいがなかなか瀟洒なこの家を、彼は「青猫亭」と名付けて住んでいる。あんまりセンスのいいネーミングじゃないけれど、白い壁のバタ臭い平屋には似合っていなくもない。

 大体月に一度くらいの割合で、僕は青猫亭を訪れる。いつも目当てにしているのは、かれの応接間に並んでいる酒と、いっぷう変わった彼の話だ。


 その日は気持ちのいい、五月の中旬の土曜だった。ゴルフ場の木立の間からもれてくる夕日を浴びながら僕は坂道を登った。

 うっすらと汗をかいた僕を、旦那は実に涼しげな様子で出迎えてくれた。彼得意のパスタで軽い夕食を済ませ、ウィスキーを飲みながら(その日グラスに注がれたのは、グレンモーレンジの十年ものだった)僕たちはいつものように雑談を始めた。

 僕は何枚かのレコードを持参していて、だから初めは最近の音楽シーンの話をしていたのだけれど、ちょっと流行っているとある美人ヴォーカリストの名前をきっかけにして、話題は女の事に移った。いつ見ているのだか、旦那は僕の大学の女性たちに関しては実に詳しくて、僕たちは帚木の巻の物忌みの公達よろしく、何人かの女の子の品定めを楽しんだ。

 そういえばね、と旦那が切り出した。

「俺の友人に、実にハンサムな男がいてね。ちょっと線の細い、影のある美形ってところかな。それでいて少し、ヘルムート・バーガーを連想させる処もあってさ。俺より幾つか年上だったけど、やたらと女に好かれる奴だったね」

「旦那みたいな女誑しだったのかい。」

 僕は少し、からかうように云った。旦那自身、個性的なハンサムと言えなくもない。もっとも、いつも皮肉に歪んでいる口下を別とすれば、だけど。

「ルックスの点ではいい勝負だな」照れも悪びれもせず、旦那は澄まして云った。

「俺はともかくとして、少なくとも彼にはプレイボーイの要素はまるで無かったね。実家は金持ちだし、落ち付いた柔和な性格だし、頭も切れて気働きはあるしで、前提条件は完璧に揃ってたんだが」

「所謂、女嫌いって奴だ」

「ところが、そうでも無いから複雑なんだ。若干ナルシストの傾向はあったけれど、女性には実に愛想がいいし、親切だった。別に常軌を逸してシャイだった訳でも、ソドミイの気があった訳でもない。ただ、身のまわりの女たちにセクシャルな意味での興味を向けるって事がまるでないんだ」

「極端に淡白な質か、あるいは不能者か、だな」

「残念ながら、そいつも外れだな」

 旦那はアンチョビで巻いたオリーブを口にすると、ロックのウィスキーで流し込んだ。

「彼は女性美には、極端なくらい敏感だった。友人の女たちのメイクが似合っているか、彼女たちに相応しいファッションを身に付けているか───そういった事を彼は実に頻繁に口にしたし、またその指摘もけっこう鋭く的を射てるんだね。ま、不能かどうかまでは知らないけどさ」

「───降参だな。どういうこった」

「さあね。訊ねた事もないし、別段俺や他の連中に説明しなきゃなんないような事でもないしね。───ただ、彼がそうなった理由に心当たりがないでもないがね。ところで、もう一杯どうだい。それとも他の酒がいいかな」

 僕が、ラムが飲みたい、というと、旦那はソファから立ち上がって、背後の重厚なキャビネットからハバナ・クラブを取り出して僕のグラスに注いでくれた。僕はグラスに大きめの氷をひとつ、放り込んだ。旦那は再びソファに座って足を組むと、薄荷煙草に火を点けてから話しはじめた。

「彼の家は極端な女系家族でね。まあ彼の地元では結構な旧家なんだが、どういった訳か男はきまって早死にするんだ。俺が彼と知り合った時には、彼の親父さんも祖父さんも、一族郎党どもはみんな死んじまってたな。生き残っているのは彼自身と、何人かの独身の従兄たちだけだった。彼の話によると、何十代も前からそうらしいんだな」

「呪われた家系だな」

「そうかもしれない。とにかく、そんな因縁のひとつもまつわりついていそうな古い家柄なんだよ。しかも女に関しちゃめっぽう多産で、その上それぞれがとんでもない美人揃いとくる。俺が直接会ったことがあるのは彼のお袋さんと姉さん二人だけなんだが、姉さんたちはどちらも、ちょっと凄いくらいの美貌だし、お袋さんの方も年より二十は若く見える花のかんばせに年相応の優雅なものごしが見事な調和を見せてる、ってな具合だ」

「なるほどね。そうした環境のせいか」

「多分ね」旦那はゆるり、と煙を吐いた。「理想が高いって訳だ」

「そんな言葉は、巷の女が自分の値段を吊り上げる時にだけ使うもんだとばかり思ってたけどな」

「まあ聴けよ。ところがある日、ついに彼も恋に落ちる日がやって来た」

「相手はグレース・ケリーか誰かかい」

「まぜっ返すなよ。彼女はもともと俺の友人だったんだけど、よくて十人並ってところだったな。気さくな、いいこだったけどね」

「なんだよ。話が違うぜ」

「恋愛なんてそんなもんさ。ひとつやふたつは思い当たるだろ。随分長い間彼は悩んでいたけど───なにしろ、惚れられる事には慣れてても自分が誰かにいかれちまうなんて想像した事もなかっただろうからね───そのうち意を決して胸中を告白した。俺がさんざっぱらあおり立てたせいもあったけどね」

「彼女は?」

「否も応もないさ。まあ、何十人かの女たちの恨みを買う覚悟を決めるまでには結構時間が掛かった様子だったらしいけど」

 旦那はグラスを干して、手酌でグレンモーレンジを注いだ。

「でもそれは杞憂だったね。彼らは実に初々しい、それなのに内側にはヒースクリフとキャサリンに匹敵するくらいの情熱をたぎらせた、他人に口を差しはさむ余地なんかないような恋人たちになった。プラトニック・ラヴとしては歴史に残るもんじゃないかな」

「やけに大層だねえ」僕はライト・ライムを口に運んだ。「そんな恋愛ができりゃ冥利に尽きるな」

「見てる方だって、なあ、承、やっぱりそうさ。驚いたのは、彼女がみるみるうちに綺麗になっていったことだね」

「恋は女を美しくするって事かな」

「俺もその時にはそう思ってたよ。でも今から考えるとそんな生易しいもんじゃなかったね。表情や仕草のひとつひとつがそれこそグレース・ケリーも顔負けの優美さと輝きを備えるようになって、そうなると彼女の少し丸い鼻やいささか柔らかすぎる頬の線も、奇跡的なバランスを保っているように見えてくる」

「そうすると、彼女に云い寄る男が出てくるな」

「まさか」旦那は笑う。「普通の男なら、ライヴァルを見て諦めるよ。この俺だって、ちょっと御免蒙るね。───不思議なのは、彼女が美しくなってゆくにつれて彼の方はだんだんやつれていくんだ。おい、下品な想像はするなよ」

「なに云ってるんだよ」

「ま、いいけどさ」僕のグラスにハバナ・クラブをつぎ足して、旦那は続ける。「その頃俺は結構よく彼と会っていたけど、それでも衰弱していくのが目に見えてわかるんだ。肉の削げた顔で目だけぎょろつかせて、熱に浮かされたみたいに彼女の話ばかりして、その様子がまた彼の美貌に一種の凄味を与えていてね。美男は得だ、と思ったね」

「無責任な感想だな」

「そのうち彼は病院に収容されて、そうもいってられなくなった。何度か見舞いに行ったけど、病室には彼の麗しき母君が頑張っていていれてくれない。そのうち彼から電話が来た。彼の家の女たちが、彼女に逢わせてくれない、ってね。俺は義侠心からある夜彼女を呼び出し、彼を病室から脱出させて待ち合い場所まで連れて行った。彼の姿を見付けた時の彼女の顔ときたら! 君にも見せたかったね。アングルの描く女さながらだったよ。それを見た彼は、その場で俺の腕の中に崩れ折れて、そのまま事切れた。───心臓発作だったよ。彼の体は、まるで枯れ木みたいに軽かった」

 僕はおかしな気分で、黙って酒を口に運んだ。ラミア、サキュバス、カーミラ───幾つかの名前が脈絡もなく頭に浮かぶ。旦那は僕の心を見透かすような目で、

「お前の考えていることは分かるよ。俺も思ったもんさ。彼の家系は女吸血鬼の血統で、しかもそれは男たちが造り上げたものなんじゃないかってね。彼女は別の金持ちと結婚して、今じゃ二十代前半の若さで未亡人だよ」

「愛する人を妖婦にしちまうのか。ちょっとうらやましい能力だな」

「まあ、少なからずマゾヒスティックではあるけどね」

 旦那はそう云うと、ノヴァーリスの「夜の讃歌」の一節を暗唱しながら煙草をもみ消した。


「両谷承小説作品集」に戻る。
「糸納豆ホームページ」に戻る。