投函された一通の手紙
連載第14回 (市原市 三木久幸)


たこいさんへ。

 こんにちは。「糸納豆」届きました。有難うございます。しかし、本業も忙しい中で一年しか間を開けずに刊行とは! やりますなあ。

 今回は「観劇日記」が新機軸で楽しかったです。次第に戸惑いがなくなってゆく感じが出てますね(笑)。それにしても、漫画を評論させても演劇を評論させても、やはりそれなりのトーンが通低しているのはさすがです。なんか、「一回くらい観てみたいかも」って思わせるんですよね。

 あとは、「お楽しみは〜」の「栄光なき天才たち」の回が楽しかったです。ネットでも読んでいたのですが、この回がなんか好きです。正面向いてる感じがしますよね。

 それと、平岩さんの「タイタニック」は圧巻の一言。


 私はというと、忙しく働く毎日です。もうそれ以外に説明のしようがないくらい忙しいのですよ。このご時世ですから、有難いことなんですけど、正直、ちょっと体がきついです。もう40近いですしねぇ。

 そんな生活ですので、すっかり本を読むことが少なくなりました。まんがに至っては、もう全然フォローできていないです。「ジョジョ」って、いつのまにか終わったんですね。あ、そうそう、「ジョジョ」といえば、氣志團の「スウィンギン・ニッポン」って聞きました? あのサビ、すごいですよね。そのまんまで。コンビニで聞いて、ちょっと笑ってしまいました。

 そんな生活の中で、新刊が出ればとりあえず買ってしまうくらい、はまってる作家がいまして、今回はその話題にしようと思います。まずはいきなり結論から。

「森博嗣は宮沢賢治だ!」

 いやあ、こういう「○○は△△だ!」っていうのって、まあ、よくある手ですが、「だから何なんだ?」って言われればそれまで、という怖い方法でもあります。(大森望が好きですよね。)あと、外れてれば外れてるほど面白い、ってのもあります。例えば、「お楽しみは〜」の「(BASTARDの)DSのルーツ」の話題。確かに「三つ目が通る」説で正解で説得力充分なんですが、「ドカベン岩鬼」説の方が面白かったりしますもんね。いや、あれは面白かった。

 さて、本題の「森博嗣は宮沢賢治だ!」に戻りましょう。

 この2人は専業の作家ではなく、森博嗣は工学、宮沢賢治は農学と、その本業がともに「技術者」である点が共通しています。また、森博嗣が大学の助教授、宮沢賢治は農学校の教師と、ともに「教職」でもあります。

 まず、「技術者=理系」という共通点。作品の中で、理系の単語や科学用語が装飾的に使われている部分が印象に残ります。それは小説や物語ではなく、詩に顕著です。森博嗣の小説では、途中に詩的な章がインタールード的に入り込んでくることが良くありますが、そこで装飾として使われる科学用語には、宮沢賢治の詩で使われる科学用語に非常に近いニュアンスを感じます。そして、自分を含めた人間をできるだけ遠景で捉えようとする視線。生と死、生命と無機物、これらを相対的に対置しようとする態度。例えば、有名な「春と修羅」の「序」、「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流幻燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明の幽霊の複合体)」という文章など、非常に森博嗣的な感じがしないでしょうか? 装飾としての用語、生命を客観視しようとするその視点の位置などに、「理系」としての共通点を見るように思います。

 そして、もうひとつの「教職」という共通点。S&Mシリーズの犀川と萌絵の関係は、「銀河鉄道の夜」のカンパネルラとジョバンニの関係性に通じるものがないでしょうか? 犀川は、この世に生きていながら、どこか別の場所を探しているような目をしています。体はそこにいながら、気持ちは半分だけしかそこにはいないような。そして、こちらを見てない、その背中を追う者がいる、という構図。それが萌絵な訳です。でも、この関係は作者が色々のところで言及している通り、「恋愛」ではないのですね。強いて言えば、それは「教育」なんだと思います。同じような構図は「銀河鉄道の夜」のカンパネルラとジョバンニにもあります。こちらの場合は男女ではないので「恋愛」を連想させないのですが、非常に似た関係と感情だと言える。ただし、この2つの関係は、結末に大きな違いがあります。犀川はこちら側に戻ってくるが、カンパネルラは行ってしまう。森博嗣は、この結末の後、犀川と萌絵の「恋愛」が始まるような気がする、とどこかで書いていたように思います。

 さらに加えるとすると、性的な倒錯感というのも共通点に挙げられるかもしれません。森博嗣は「男女の入れ替え」とか「女装」とかをよく題材にします。中性的なものが好きなようですね。この辺りに倒錯感があり、また、よくネタにされています(笑)。抑圧するが故の倒錯感というやつですか。作品中で性的な場面が描写されることはほとんどありません。宮沢賢治も物語の中で男女関係を描写することは非常にまれです(童話ですから当たり前ですが(笑))が、細かい描写の中に、倒錯的な性を読み取る人は多いようです。まあ、これは深く突っ込みますまい。

 地方からの視線というのもありますね。特に、作品中に取り上げられる具体的な地名、名古屋と岩手。あるいは地元をモデルにした仮想の地名、那古野とイーハトーボ。この2人には、地方出身の人が東京の地名を出すときにありがちな卑屈な態度もないし、関西人的な東京に対する対抗意識もない。それは、名古屋と岩手が、主流とも反主流とも無関係な「不主流」な地方だからでしょう。自分の地元に普通に暮らしている、という当たり前の感覚。それにかえってオリジナリティが宿ってしまう。これは、あまりにも東京中心の視点が日々マスコミから流されている日本に特有の感覚でしょうか。

 さて、最後に相違にも触れておきましょう。この2人には決定的に違う点があって、それは、「信仰」の有無です。宮沢賢治の作品には、法華経の信仰心の影響が多く見られると言われます。それゆえの孤独と自己犠牲。森博嗣は、そのような宗教的な超自然的存在に取り合っていない。否定すらせず、初めから無視している感じがします。しかし、森博嗣作品には「崇拝する心」は出てきます。そして、その対象を人間の中に求めようとしている。それがS&Mシリーズ、Vシリーズに共通の裏テーマになっている「天才」です。森博嗣の描く「天才」はただの突出した才能、技能、を持つ人間のことではありません。「ある極限ともう一方の極限の両方に同時に立つことができる人間」。普通の人間には理解することができない存在。普通の人間が天才に対して感情を抱いたとき、そこで生じるのは孤独感です。結果として、それは信仰と言っても良いのかも知れません。「有限と微小のパン」のラストで犀川が抱える孤独。その強度は、例えば「雨ニモマケズ」の孤独感と近い。強度だけを見れば、そう言うことができます。しかし、その方向性には違いを認めなくてはならないでしょう。(関係ないですが裏テーマといえば、二階堂黎人の「蘭子シリーズ」の裏テーマが「反キリスト教」というのは読んでいれば判ることなんですが、京極夏彦の「京極堂」シリーズの裏テーマって「天皇制」じゃないかと思うんですが、どうでしょう。戦争直後の話だからそう見えるだけかな?)

 ところで、ここで思いついたんですが、同じ「理系」「教職」というバックボーンを持っている作家に瀬名秀明が居ました。しかし瀬名秀明には宮沢賢治っぽさはないですよね。瀬名秀明には、詩的な文章があまり出てこないからかもしれません。むしろ瀬名秀明は無色透明な、映像をきっちり描写するための文章を目指しているように感じます。瀬名秀明を森博嗣と分けるもの、それは「理系」ではあるが「技術者」ではない、ということかも知れません。「世界を作る志向」と「世界を知る志向」の違い。「世界を作る志向」、それは「子供っぽさ」とも言えるでしょう。(蛇足ですけど、私個人は瀬名秀明の開かれた大人の態度は貴重であり正しいことだと思っています。)


 今のところ、私の森博嗣イチオシは、「スカイ・クロラ」。これはミステリーでなく、SFです。「エヴァ」通過後の「戦闘妖精・雪風」という感じ。間違いなく今の日本SFを代表する作品のひとつでしょう。


 最後に。今回、私またパソコン環境が変わってしまいました。実はノートパソコンのバイオくんは、去年の11月に私が朝食中にメールチェックをしている時に「飲むヨーグルト」をぶっかけてしまい、再起不能になってしまいました。とほほ。2年ほど前にお茶をこぼしたときには、乾いたら直ったんです。なので、今回もなんとかなるかと思ったんですけどねぇ。結局、粘度と糖分の多さには敵わないみたいです(笑)。修理に出したところ、「CPUとHDD総取替えで14万!」という見積もりがきまして、「あのう、それって、もう私のパソコンと別人なんですけど」って言いたくなりました。全くとほほです。

 そんな訳で、今は6月にボーナスで買った、デスクトップの2代目バイオくんで書いております。別にソニー製品にこだわろう、って思った訳でもないのですが、見た目で選んだらバイオになっちゃいました。見た目だけで言えばi-Macの方がかっこ良かったんです。でも、さすがに今となってはマックには手が伸びませんでした。裏切り者と呼んでください(笑)。

それでは。たこいさんも40前(笑)。お互い、体に気をつけましょう。

2003.8.16. MIKI


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