The Counterattack of Alpha-Ralpha Express

Lesson #9 「論評スノビズム」

両谷承


 今の世の中、「いったい誰が聴いてるんだよ」と云う音楽にはこと欠かない。何度も似たようなことを書いているので具体名は挙げないけれど、リスナーの顔が(少なくともぼくには)見えない音楽が世間にはいっぱい転がっている。きっとその辺りの音楽のファン層は、面と向かってもぼくなんかには見分けもつかないような顔をしているんだろう。

 でも、今回のお題目は少し別になる。凄まじい数がいるらしい「ぼくたち以外のリスナー層」の顔が、ぼくには見えない。ひょっとすると彼女の音楽からぼく(や、想像がつく「ぼくたち」)が受け取っているものとはまったく違うものを、彼女の音楽から得ているひとたちがいる可能性がある。


 それでもぼくは今回、ひとつのアルバムについてだけ作文をする、と云うことを試みる。「糸納豆ホームページ」からもリンクされている某サイトの「ロメオの心臓」ライナーに触発された訳ではないんだけれど。これだけセックスの臭いがわざとらしく濃厚なアルバムがテーマでも、同じことをするとどうにも絵にならない結果が見えているから(大体いい歳の男がひとまわり下の女の子のアルバムをそのまんまセックスのメタファーとして捉えたりしたら、なんだかねちこい体臭を振りまいて喜んでいる中年すけこましのような気分になってしまう)。

 では、行きます。


 粘っこく一定のリズムを刻むギターと無関心そうに鳴る管楽器、シンプルに雄弁なドラム。それはそのまま後期ビートルズの表現に見られる手法を真似て、同様の催眠効果を生み出す。

 「正しい街」にも通じるような、とても優しいメロディ。それを支えるストリングスに、高らかに歌い上げる声。そして、対照的に危なげな歌詞。自分自身でも、それを信じてはいないような。

 タイトルが示すように、ここではもちろん彼女は自分が歌っていることを頭から信じ込んでなんかいない。バイクを盗む歌や校舎の窓ガラスを割る歌を歌って似たような連中の支持を集めた上でシャブ喰って野垂れ死にして90年代初頭最大の冗談になった男に見られるような、自分の言葉に自分を陶酔させる能力を欠いているのかもしれない。そこに自分自身の現在地に対する誠実さを見ることも可能なのだけれど。

 「大丈夫」と言い切る自分と、「ボロボロで生きる」と歌う自分。どちらが、彼女にとって「虚言」なのだろう。


 クラシックなデジタルビート。いろいろなエフェクトで、人為的に明解な輪郭を与えられた声。ある種の標本化。自分自身に手を加え、分かりやすくかたちを整えてから晒す行為。「夢」と云う抽象と、その抽象に表面的な自分を近付けていく作業。溶かしたアクリルに自分を封じ込め、類型化してゆく作業。なべて類型化されたものはおおむね退屈だけれども、ほとんどのものは類型の中に分類されてしまうし、それが類型だから、退屈だからといってそれそのものの価値まで失われてしまわなければいけないものではない筈。そのことに対する逆説的な、がけっぷちのアプローチ。


 すべてがあまねく彼女に意味付けを行おうとする。ぼくだってそうだ(いままさにそれを行っている)。彼女の行動に、そこに見られる衝動に、結果として生み出される作品に。ぼくたちの多くと同じように、彼女自身も(自ら行う)その意味付けから自由になることは出来ない。

 みずから自分に与える枠組みと、表現者として宿命的に周囲から与えられる枠組み。それらと現実の自分との間にある、正体の捉えづらいなにか。さらにそこへ向かう表現衝動。


 カートとコートニー。90年代にひとつだけ現れた、このうえない刹那性の象徴。速度。

 手にしているのは、過去の集積のうえにある現在だけ。未来を手にしようとする行為は、そのまま現在の首を締めてその持ち得る活力を奪い去ることに等しい。

 いま自分の手許にあって、静かながらも力をたたえたもの。刹那に過ぎないことが分かっているとしても、その力を撓めずに慈しむ行為。現在を、なにものとも引き換えないこと。そのヴィヴィッドさを、(いつか失われるにせよ)ありのままのものとして受け入れること。


 その昔、松任谷由実の「守ってあげたい」にパラダイムシフトを見い出した頭のよくない売文家の文章を読んだ記憶がある。あの歌の歌詞については、その空々しさこそが本質であったのに。ジェンダーに係わらず、「守る」と云う言葉は本質的に空しい。いまここにある種類の荒野のなかでは、誰かが誰かを守ることなんか出来る筈もない。存在するのは、守ろうとする側の「守りたい」と云う欲望だけ(まあ、守られる側の欲望と合致する場合も存在するけれど)。

 もちろん欲望が空しさを上回ることは珍しくない。そのことを幻想としてわらうのは(岸田秀的な安直お手軽シニシズムに乗っ取れば)容易なことだ。それでも、その感情を抱くこと、わずかな時間でもその感情に身を任せることに、(そこに諦念が存在していればなおさら)価値を見い出すことはけして無駄ではない、筈。そのことは、快楽に直結するものであるために。 ストリングスとともに、淡々とたたみかけるリズム。


 輝かしきギターリフその1。

 プロの表現者であるその故に、彼女の活動は彼女ひとりに帰せられるものではあり得ない。すべての人々が、彼女になんらかのものを求める。それはもちろん宿命であって、責めを受けるべきなのは彼女自身以外にはあり得ない。このディレンマを、そのまま表現として執り行う。彼女の使う言葉を借りるなら、性。


 とてもありふれた恋愛の情景。「泣き喚」くこと。「孤独」に晒されること。「現在だけ」を求めること。すべてはだれもが恋愛の中で出喰わす、云ってみればとても切ないルーティン。

 もちろんその切なさは、「ぼくたち」が共有することが出来るものではない。常にそれはぼく(わたし)だけの固有の体験。ありふれているから、他の誰かも感じているから、と云うような理由ではけして薄められることがあり得ないような。想う瞬間、苦しむ瞬間そのものが、そのことによって価値を持つような、安っぽいながらも得難い状況。

 浅井"Benzee"健一のギターが、全編の中で唯一この曲の間だけアメリカ的な粘っこいビートを生み出す。凄絶な存在感と伴って生み出す異和。異物を受け入れることによって浮き立たせられる、ある感情。


 唐突に、ムーンライダーズ。デジタル処理を介することではじめて彼女自身の与えた軛からも解放され、かろやかに遊ぶ、声。


 一人称代名詞は、選択によっては容易にミスティフィカシオンの道具として使うことができる。実際の語り手と異なったジェンダーを示す一人称代名詞を用いることによって、そこに(実際は介在しないかも知れない)客観性に似せたものを生じさせることが可能だ。

 距離を置くこと。その事でなおさらあからさまになる激情。抑制と、そこからの逸脱。ニルヴァーナを連想させる手法。「あたし」では示すことの出来ない、「ぼく」を使うことによって初めてまっすぐに表現できる、救いの希求。ただそれは、彼女自身(のセルフプロデュース、もしくはパブリック・イメージ)と距離を置く語り方によって、いくらかの結晶化を成功させている。

 ぼんやりした絶望に鑿を奮って削り出すことによってかたちづくられる希望。もっとも容易に信じられるもののひとつ。


 ジャズ。そこに纏わりつく、やに臭いイメージを利用する。それは「歌舞伎町の女王」を連想させるような遣り口。言い換えるなら誰にでも見て取れて誤解を生まないような、直喩。

 彼女のイマジネーションを安っぽい類型に押し込めようとする圧力は、いつだって存在する(この原稿もそのひとつだろう)。それに抗うのか、利用するのか。彼女の表現がすべてを見越して演じられているような作為的なものには見えないし、自らのセックスを暗示してそこを認めてもらうことからしか物事を始められないおねえちゃんたちみたいな開き直ったナイーブさも(ぼくには)確認できない。だとすればそこに表現者としての正直さを見い出す事もできるだろう。

 さて、そこでこの「マゾヒスト」のうたう、自らを侮辱するような言葉に何を見るのか。そして、(ぼくには顔の見えない)彼女のリスナーたちはなにを見ているのか。


 輝かしきギターリフその2(ドラムとともに)。ある拘束が明示的に与えられることによって浮き彫りにされる状況。虜囚となることによってあらわになる自分の姿。それが誤解に基づく可能性までを含めて。


 ロコモーティブなピアノと、悪意を感じさせるほどに出来上がったメロディと、作為的なうたい方。

 連なる言葉の中で、ひときわ耳に突き刺さる「真実」の響き。しかもそれは「虚の真実」。何度も繰り返されてきた「刹那」と、それを見つめながらも突き放すような言葉の重ね方。

 それが嘘であっても、失われることが分かっているものであっても、愛おしむことはできるのだから。


 アルバムを優しい肌触りの曲で締めくくる、ライブで怜悧な計算。それでも、表現そのものは流されない。異物感は充分に仕込まれる。

 時系列を言葉に織り込む。共に蠢く感情を丁寧にうたう。「刹那」が、つねに状況を伴っていることについての自覚を告白する。そこにしか存在しない特定の状況から、普遍性へのショートカット。直接的には弱さを表現しているように見えて、そこにたち現れるのはある強靱さと豊かさ。そうして、余韻。


 うむむ、ここまで書いても、ぼくにはやはり彼女がどんなひとたちを惹き付けているのかを見い出すことが出来なかったかも知れない。まあひとつの試みです。それではまた。


音楽関係エッセイ集に戻る。
「糸納豆EXPRESS・電脳版」に戻る。
「糸納豆ホームページ」に戻る。