映画の宝箱
──ライカ犬とトトロのこと
たこいきおし


 今回、『花田少年史』についての原稿(「お楽しみはこれからだッ!!」#39)を書いていたところで、以前書いてお蔵入りにしていた原稿のことを思い出した。

 就職してから、糸納豆の活動とは別に、大学時代に三木や日浅くんとやっていた東北大SF研お絵描き会会誌「デジャヴ」のリターンマッチをやってみようと思い立ったことがあって、でも、文章の原稿はそれなりに集まっていたんだけどマンガの原稿が思うように集まらなくて、なんとなく企画そのものが立ち消えになってしまったのだった。それ用に書いた映画ネタの原稿が以下の文章である。

 まあ、お蔵入りの理由はそれだけでもなくて、実は以下の文章を導入としてちょっと突っ込んだ宮崎駿論を展開しようとして途中で話に詰まり(笑)、未完に終わっていたということもあったりするのだけれど(笑)。


 ちょうど話題が共通するので、「お楽しみはこれからだッ!!」#39の参考資料的な意味で今回蔵から引っ張り出してみることにした。前述の未完の宮崎駿論の部分はばっさり落としてシンプルな比較映画論の形にしてある。お楽しみいただけると幸いである。


1 あたりまえの少年


「自分のお袋が入院してて、家に女中しかいなくてね、今はお手伝いさんていうのかな。仲悪いんですよ、女中と子どもたちっていうのは。敵同志なんですね。朝なんていうと、バーッと布団ひんむかれるし、情け容赦ないんですね。向こうだって18歳か20歳ぐらいでしょ。ガキども扱って、いうこときかないし、頭に来てたんだろうと思うんだけど。で、兄貴が学校へ二部授業で出てきてね、『犬が連れてかれちゃったぞ』と言ってね、自分のかわいがっていた犬がですよ。その時の気分を思いだしたんですよ。立っていられないぐらいの、ものすごく気持ち悪くなってね、悲しいとか、かわいそうってよりもね、もうどうしていいかわからないわけ」(『となりのトトロ』ロマンアルバム「宮崎駿インタビュー」より)

 ここにみられる宮崎駿の幼年時代は何も特別なものではない。家に女中がいたということからして当時にしてはどちらかといえば生活水準の高い部類には属していたかもしれないが、ごくあたりまえの一人の少年の姿を思い浮かべるのはた易いことである。

 これが何も特別のことではない証拠には、遠く海と大陸を隔てたスウェーデンの地にも、同じ頃に同じ様な境遇の少年がいた。

 時は1958年、母親が病気の為に、それまで住んでいた海辺の街から山間部の村へ預けられたその少年は12歳。名をイングマルという。


2 サツキとイングマル


「あの物語の舞台は、実はいろいろな所から取っているんです。聖跡桜ヶ丘の日本アニメーションの近くとか、自分が子どもの頃見て育った神田川の流域とか、今住んでる所沢の風景とか、みんなまざっちゃったんです。それに美術の男鹿和男さんが秋田の出身だから、なんとなく秋田らしくもなってるんですよ(笑)。だから具体的に場所を決めたというわけではないですね」(同「宮崎駿インタビュー」より)

 『となりのトトロ』は公称するところ、昭和32〜33年頃を舞台にしているとされる。もっとも、実際には宮崎駿がサツキくらいの年だった頃、ということで昭和20年代後半というイメージが強いのだが。ところでこの昭和32〜33年というのは西暦でいえば1957〜58年! 『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』が1958年であるから、この二本の映画は、ほぼ同じ年に舞台を設定されていることになる。主人公も、サツキが10歳、イングマルが12歳と、大体同じ年頃である。

「いえ、ストックホルムではありません。南部の、海が見える、どの町でもありうる小さな町が、イングマルの都会の舞台です。村の舞台は、はっきりしています。行政区画ではないのですが、風景で分けるスウェーデン流の地方区分でいうスモーランドで、スモーランドといえばガラスをつくるところだなとスウェーデン人なら思いあたるような地方ですが、そのなかのオーフォルシュという村です。その間をイングマルが旅するのです」(『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』パンフレット「ラッセ・ハルストレム・インタビュー」より)

 『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』を撮ったスウェーデンの映画監督ラッセ・ハルストレムのこの談話が、既に引用した宮崎駿のそれと何やら同じような印象を与えるものであることに注目しよう。

 日本、スウェーデン、と、舞台こそ違え(アニメ、実写、という形式の違いこそあれ)、この二本の映画はともに1950年代末の子供の日常を、作為性を極力排してごくありのままに、ごくあたりまえに描き出したという点で、等質の手触りを感じさせる。

 『マイライフ』が製作されたのは1985年だが、この映画が、『トトロ』の製作と同じ1988年に日本で公開され、双方ともに絶賛を浴びたというのは、何かの暗合ででもあるのだろうか。少なくとも単なる偶然というには、あまりにできすぎた話ではある。

 因みに宮崎駿の生年は1941年。ラッセ・ハルストレムは1946年。『マイライフ』の原作者レイダル・イェンソンが1944年である。まあ、若干の開きはあるにせよ、それぞれ、1950年代に少年時代を過ごした人々なのは間違いない。

 「1959年、ぼくたちは12歳だった」というモノローグで始まる『スタンド・バイ・ミー』は、やはり同年代ということになるが、こちらはかなり感触の異なる映画である。対するに、『となりのトトロ』と『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』には家族的類似性とでも呼ぶべき相似点、符合点が多々見受けられる。

 物語の時代設定、主人公の年頃については述べた通りだが、例えば、サツキの母親もイングマルの母親もともに結核で入院・療養生活を送っている。母親の病気の為に子供がそれまで住んでいた都会から田舎へ行くことになる、というシチュエーションはほぼ同じものと言ってよかろう(サツキの場合、母親の退院後の療養の為、空気のよい田舎の家に引っ越したのに対し、イングマルの場合、母親の負担を軽くするために田舎に預けられた、という差異はあるが)。

 サツキは元気のよい、いつも走り回っていて、男の子とのケンカにも一歩も退かないような割と男まさりっぽい少女だが、『マイライフ』のガラス工房村の少女サガは初め男の子として登場するイングマルのサッカー、ボクシング仲間である(実際、画面の中のサガは美少女というより美少年といった風情がある)。まあ、これは余談になるが、サツキもサガも、カンタ、イングマルより背が高い。このくらいの年頃には、女の子の方が男の子より成長が速いというのは万国共通であるらしい。

 カンタはサツキに、サガはイングマルに淡い、ほのかな想いを抱いているが、対する主人公(サツキ/イングマル)はまだまだそういう方面には疎いというか何というか、気が回るところまでいっていない。

 例えば、『トトロ』における草壁家の両親の穏やかさに対して、イングマルの家庭の殺伐とした雰囲気、ヒステリックな母親、父親の不在(貿易関係の仕事をしているらしいのだが、ついに一度も画面には姿を見せない)、『マイライフ』が田舎と都会の双方を舞台にしているのと比べ、『トトロ』には都会の生活が全く描かれていないなど、細かな点で違いを挙げればきりがないが、主要な登場人物の配置、位置関係、シチュエーションの類似は特筆に値する。それよりもなによりも、描かれている日常生活のさりげなさ、登場人物のリアクションの自然さ、と、いった点で本質的に共通していると言っていいだろう。


3 トトロとライカ犬


───なぜ女の子ふたりの姉妹にしようと思われたんですか?
「ぼくが男だからですね。男だったらカンタの兄弟でしょう。そしたら違いますね」
───もっと荒削りになりますか?
「いやあ───もっと痛ましくて、ぼくには作れないでしょうね。あまりに自分の子ども時代のこととオーバーラップしてしまって。だから、それは作りたくない」(同「宮崎駿インタビュー」より)

 このように似通った感触を持つ『トトロ』『マイライフ』の間には微妙な、しかし決定的といってよい相違点がある。

 宮崎駿がカンタを主人公として『トトロ』を作っていたとしたらどういう作品になっただろうか(私見だが、かなり『マイライフ』と近い作品になったのではないか、と、考えている)。インタビューの中で宮崎駿の言う「痛ましさ」は『トトロ』の中にもそのカケラが見えかくれしている。しかし宮崎駿はそれをつきつめることはしない。

 『トトロ』のエンディングには結核の治療が終わって退院し、サツキたちの待つ家へ帰ってくる母親の姿がある。『マイライフ』においては、物語半ばにしてイングマルの母親は病死してしまう。

 自分の境遇を、スプートニクに乗せられて宇宙で死んだライカ犬や競技場を歩いていて投げ槍がささって死んでしまった人、オートバイで何台も並べたバスを飛び越えるアクロバットに失敗して死んだ人、等々とひき比べて、それよりは自分の方がマシだと独白するイングマルの姿は、実際、痛ましい。しかし、『トトロ』と『マイライフ』の相違は何も「痛ましさ」の強弱にあるのではない。単にけなげというだけなら、サツキもイングマルも同じくらいけなげな少女/少年である。それでは、『トトロ』と『マイライフ』を隔てているものは何だろう。

「そこでどうにかしましょうとか、そこが何とかなるんじゃなくて、宝島はあるし、トトロはいるんですよ。いることによって、サツキとメイは孤立無援じゃないんですよ。それでいいんじゃないかと思うんですよ───」(同「宮崎駿インタビュー」より)

 無垢な子どもにしか見えないトトロの存在は、ピンとはりつめた日常を過ごしているサツキの心を、ほんの一時、解放してくれる。とはいえ、『トトロ』と『マイライフ』の相違はトトロの存在/不在にあるという訳でもない。確かに『マイライフ』には「トトロ」はいない。しかしそれに対応するものが間違いなくあるからである。

 『マイライフ』において「トトロ」と対応しているもの、それは「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」───犬と自分を同化させたいと切望してやまないイングマルの夢想そのものである。都会から田舎の村へ送られる際に残してこなくてはならなかった愛犬のシッカンとまた遊びたい。そしてスプートニクで餓死したライカ犬に想いをはせる。

 サツキ/イングマルの日常ははりつめられている。その緊張が限界まで達した時、サツキの前にはトトロが現れる/イングマルは愛犬シッカンとライカ犬への想いに身を委ねる。


4 サガという少女


「私自身がこのタイトルをいいと思ったのは、シンプルなことですが、原作がそのタイトルで私が好きだったということと、少年がライカ犬に同化したいというほどの思いにぴったりでもあり、その思いを簡単にうちのめすサガの存在が面白いと思ったからです。
 『あの犬は死んだんだ』とサガがイングマルに言った後のことは、私はあまり意味づけて考えたくありません。それ以前のイングマルのマイライフとは変わっていくだろうという考えがあっただけです」(同「ラッセ・ハルストレム・インタビュー」より)

 愛犬シッカンは実はイングマルが初めに村に預けられた直後に薬殺されていた。イングマルの夢想は現実の前で次第に無力化していく。

「それは何のマネ? あんたの犬? あの犬は死んだんだよ!」

 サガの投げつけた言葉はイングマルの拠って立つところの夢想を粉々に打ち砕く。夢の破れた後には直視しなくてはならない現実が残る。

 しかし現実も常に残酷なばかりではない。ガラス工房村の日常はおだやかで、さりげなく、笑いが絶えない。現実に目覚めてしまったイングマルの周りを「現実」の優しさが包みこむ。

 対する「トトロ」の存在は強固なものである。おとうさんの傘を持っていってしまったり、木の実をおみやげにくれたり、トトロは半ばサツキとメイの夢想といった形で姿を顕しながらも、ちゃっかり現実にも干渉している。あまつさえ、迷子のメイを探すサツキにネコバスまで貸してくれたりする。サツキは「夢想」の優しさにどっぷりと包み込まれていて、その瞳にはまだ「現実」は映っていない。

 『トトロ』と『マイライフ』の相違は『マイライフ』の中に「トトロ」が存在していないということではない。『トトロ』の中に「サガ」が存在していないという点にある。それは主人公の持つ幼年期の夢想を打ち砕いて、主人公を覚醒させてしまう存在である。  『トトロ』のラストにおいてネコバスにゆられてメイと二人微笑んでいるサツキはまだ「少女」として覚醒してはいない。いわば「未少女」のまどろみの中にとどまっている。

 『マイライフ』のラスト、サガを抱きかかえるようにして一つのソファで午睡にまどろむイングマルは、しかし既に「未少年」の段階から一歩踏み出し「少年」として覚醒しているのである。

 「幼年期の終わり」を描かないことによって『トトロ』の世界は無条件の優しさにに満ちている。それはそれで心地よいものなのではあるが、若干過保護に過ぎるという印象を受ける、と、言ってしまうのは言い過ぎか。

 「幼年期の終わり」を描いた『マイライフ』にはそれ故の「痛ましさ」がある。しかし、あのラストシーンからは、それ故の「すがすがしさ」もまた感じられるのである。


 そのような相違はあるのだけれど、僕にとっては、どちらの映画も引き出しの奥にしまっておきたくなるような、例えば壁に飾って毎日ながめるというのではなしに、大切にしまっておいて時折想い出しては取り出してながめたくなるというのがふさわしいような、そんな、ささやかな、子供の頃の宝物のような映画である。


「糸納豆EXPRESS・電脳版」に戻る。
「糸納豆ホームページ」に戻る。