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第57回 “メイド・イン・ジャパン”
 掲載誌 糸納豆EXPRESS Vol.23. No.1.(通巻第39号)
 編集/発行 たこいきおし/蛸井潔
 発行日 2005/05/03(予定)


 唐突ではあるが、月刊LaLa誌上において、津田雅美『彼氏彼女の事情』がとうとう最終回を迎えた(2005年6月号)。庵野秀明が『エヴァンゲリオン』の次のTVアニメとして監督をしたりしたので読んでいなくてもタイトルくらいは知っている方が多いことかと思うが、なんとまだ続いていたのである(笑)。

 その6月号をぱらぱらめくっていたら、懸賞プレゼントのページの真ん中あたりにどーんと「メイド風ワンピース」(笑)という賞品が載っていたので、つい笑ってしまった(笑)。そのあおり文句に「ヨーロッパといえばゴシックの聖地!」(笑)とあったのだが、いわゆるゴシックロリータを単にゴシックと略してしまうことで、こんなに言葉に違和感を感じるとは……(笑)。(と、いっても「ゴスロリの聖地」と書くのも何か違う気が……(笑))

 とはいえ、少女マンガ雑誌の懸賞プレゼントにメイド服(笑)が登場する時代なんだなあ(笑)、と、感慨(?)にふけってしまったので(笑)、今回はそのあたりの話から(笑)。題して「メイド・イン・ジャパン」ということで……(笑)。

「そこが大事なんです」

 こちらは、日本で最も正しいメイドマンガ『エマ』のあとがきマンガに頻出する作者森薫の力説台詞。『エマ』の作品中では、ヒロインのエマが服を着替えたり、眼鏡を外したり、といった些細なシーンに大幅にページが割かれ、スカートの裾が翻ったりするシチュエーションがじっくりと丹念に描写される。おそらくは日本で最もメイド服を愛する森薫にとって、それらのシーンは絶対に外すことのできない、大事なもの、であるらしい。


 ちょっと面白いと思ったのは、いわゆるヴィジュアル系バンド(って、今ではほとんど死語か(笑)?)のファンの少女たちの間で広まってきたらしい、黒と白をベースにレースやフリルが多用されるゴシックロリータと、おたく文化の中で一定のジャンルを確立したメイドものが、「メイド服」をキーワードにすると、なんとなく同じ表現形(笑)を示す、という点で、これは、進化論でいうところの収斂進化のようなものか(笑)?

 ともあれ、ゴスロリを着ているようなタイプの女の子とメイド萌えのおたくは絶対に接点はないと思う(笑)。種が違う(笑)、ということで(笑)。

 そういえば、収斂進化の代表であるところのサメとイルカも黒と白をベースにした姿はしているな(笑)。フリルはないけど(笑)。

 閑話休題(笑)。その収斂進化を論じたひとつの例が服飾雑誌「装苑」の2005年2月号である。

 「装苑」を知らない人のために若干の解説を加えると、創刊は戦前に遡るたいへん由緒正しい服飾雑誌であり、新人賞「装苑賞」は、著名デザイナーを多数輩出している。普通のファッション雑誌が服を「着る」人をターゲットにしているのに対して、プラス服を「作る」人への視点を編集方針の中に持っているのが特徴といえば特徴かと思う。

 その「装苑」2月号の特集が「ゴシックロリータはモードになるか?」というもので、服を「着る」側の女の子たちが自分たちに手に入るものを組み合わせて草の根的に作り出してきたゴスロリというスタイルを、服を「作る」側の視点で再評価、再解釈しよう、というものであった。

 その特集自体は、なかなか興味深いものであったのだが、その特集の一部として、森薫の『エマ』がとりあげられていたのにはちょっと笑ってしまった(笑)。題して、「そこが大事なんです。福田里香のフードコラム拡大版・『エマ』とヴィクトリアン・フードの秘密」(笑)。

 見開き2ページのこのコラム、「ゴスロリ」特集を「食」の視点から斬る、というコンセプトで、1ページはハロッズとフォートナム&メイソンの紹介(メイド服姿のハロッズの店員さんの写真付)にあてられているのだが、残り1ページは森薫描き下ろしのカラーイラスト(ビーフステーキプディングの作り方)と、このコラムニストによる森薫への熱烈なラブコールで埋め尽くされている(笑)。あまりにも森薫に対する愛にあふれすぎていて、本体の「ゴスロリ」特集の中では、ここだけ内容が浮いてしまっている感もなきにしもあらず(笑)。因みに、このコラムのインタビューの中でも森薫が「そこが一番大事なんです!」といろいろ力説しているのは、いうまでもない(笑)。

 なにはともあれ、この特集により、エンターブレインというおたく系の会社が上梓した本格メイドマンガが、服飾界の権威によって「ゴスロリ」の相似形として認定された、と、いうことにしておこう(笑)。

「私ね、前から思ってたのよ。
 教育ってのがどれほどのものなのか。
 イチから教え込んであげる。うちに来る?」
「………。はい。奥様」

 台詞は『エマ』2巻より。舞台は英国、ヴィクトリア朝の時代、生涯を家庭教師として過ごしてきたミセス・ストウナーは、隠居生活に入る際に、浮浪者生活をしていた少女を引き取り、メイドとして育て上げていた。そのメイド、エマと、ミセス・ストウナーのかつての教え子である貿易商ジョーンズ家の嫡男ウィリアムとの身分違いの恋がこの作品の主旋律である。


 現代日本はなにやら空前のメイドブーム(笑)である。メイド服、あるいはそれに類する服を着たキャラクターが何らかの形で登場するマンガ、アニメ、ゲームは枚挙に暇がない(笑)。秋葉原あたりを中心に、メイド喫茶などというものまで登場する始末であるが、それらのおたく文化発の「メイド」は、一般的には単なる形、記号としての「メイド服」に着目したものであり、「巫女さん」とか「猫耳」とか「眼鏡っ子」などとほぼ同列のものである(笑)。

 前述のゴスロリにしても、結果的に形が似ているというだけのことであり、そのスタイルに身を包んでいる女の子たちの頭の中には、ほとんどの場合「メイド」の「メ」の字も浮かんではいないことと思う(笑)。

 そんな中にあって、メイド服に対する愛着からメイドという職業そのものの歴史的背景を掘り下げ、形だけでなく、その本質を捉えようと作者本人が常に向上心を絶やさずに描き継がれている『エマ』というマンガは、この空前のメイドブームの中で、中核であると同時に、一種の特異点でもある、と思う。

「階級がそれほど大事だと言うなら、
一生、その上流階級として生きてやる。
あるべき姿、とるべき態度。
誰もが認める上流階級の体現者になったら、
死ぬときに全部捨てて死んでやる」

 台詞はエマとの仲を一度は裂かれたウィリアムが親友のハキムに語った、屈折した決意。

 前述の通り、『エマ』の主旋律をなすのは上流階級に属する青年とメイドのヒロインとの身分違いの恋、ということで、まず、作品のメインモチーフとして非常に古典的なラブロマンスを題材に選んでいる。なおかつ、背景となるヴィクトリア朝時代の英国の風俗や日常が丹念に描き込まれている点も特徴で、味わいとしては、舞台となる国は違うものの、アニメ版『赤毛のアン』あたりが一番近いように思う。

 因みに『エマ』と『赤毛のアン』は、いずれも19世紀末を舞台としているので、味わいが近い理由のひとつはそのあたりにもあるかも。

 そういう意味では、おたく系のメイドブームから生まれたにも関わらず、おたくの素養のない人にも安心してオススメできる作品になっている、と、思う(たこい家では、妻も「続きいつ出るの?」と、割と心待ちにしている。ご参考まで(笑))。

 それが証拠には、先に紹介した「装苑」のコラム。前述の通り、『エマ』への愛に満ち満ちているのだが、その一部を引用してみると、曰く…… 「『エマ』を読むまでなんの思い入れもなかった私が、今やメイド萌えだ」「自分の知らなかった扉がひとつパタンと開いた気分」などなど(笑)。

 1ページ目で、作者の森薫のメイド服への愛から生まれる丹念な描写について触れたが、それらは、森薫本人の「メイド萌え」の発露であると同時に、演出の上でもヒロインであるエマの心理のひだをきめ細かく描写したシーンともなっており、前述したような『エマ』という作品の味わいを形成する重要な要素のひとつともなっている。

 それらは、同じカードの表裏とでもいうべき不可分なものであるが故に、『エマ』という作品の味わいに触れた読者〜最初から「メイド萌え」で読んでいるおたく系読者はこの場合除外するが(笑)〜の深層心理には隠し味(笑)の「メイド萌え」が知らないうちに刷り込まれる(笑)、というような副作用があるのかもしれない(笑)。いわば、「メイド萌え」の無限増殖装置(笑)である(笑)。


 そんなこんなで(笑)、作品そのものより周辺事情についての話がすっかり長くなってしまったが(笑)、なにはともあれ、『エマ』である。

 ウィリアムは恩師のミセス・ストウナーを訪ねた際にエマに一目惚れをする。その後、偶然なども手伝い、ウィリアムとエマの仲は少しずつ深まっていく。しかし、厳格なウィリアムの父親の反対、ミセス・ストウナーの死などが重なり、エマはウィリアムに行き先を告げることもなくロンドンを離れる。

 その後、ウィリアムは前ページに引用した台詞のごとく、屈折を秘めながらも模範的な上流階級の道を歩み、エマはというと、ロンドンを離れる列車の中で知り合った縁で、ハワースに居を構えるドイツの貿易商メルダース家のメイドとなる。

「…… “海の妖精 こぞりて鐘を打ち鳴らす”
“聞け かの鐘の音を”
“ディン・ドン・ベル”……。
 何だったかしら、あれは」
「『真夏の夜の夢』……」
「あなたは本当にメイドなのかしらね?」

 そんなある日、エマはメルダース夫妻のロンドン行きに同行することとなる。引用した会話は、ホテルでの朝、メルダース夫人ドロテアとその身の回りの世話をしていたエマとのやりとり。

 ミセス・ストウナーに子供の頃に引き取られ、その死まで一人の主人にしか仕えたことのなかったエマは、自分の能力のポテンシャルについて、無自覚なのであるが、メルダース家に入ってからは、他のメイドとの比較から、彼女のポテンシャルの高さは事あるごとに際立ってくる。

 良家の家庭教師を歴任してきたと思われるミセス・ストウナーは、2ページ目に引用した台詞にもあるように、隠居後にエマに対して自分の持てる全てを注ぎ込んだと推察される。現時点ではまだ単行本の5巻が出たばかりだが、この先、エマとウィリアムが英国の階級制度に勝ち目の少ない闘いを挑んでいく過程では、このエマのポテンシャルが必ずやキーとなっていくものと思われる。

 『エマ』の主旋律が「身分違いの男女のロマンス」にあるとするなら、背後に流れる副旋律としては、「階級制度への教育の挑戦」とでもいうべきものがあるように思う。

 同じアナロジーでいうなら、「メイド萌え」(笑)の要素は、ストーリーの表面上の流れに属するものではなく、なおかつ、底流には常に流れているもの……音楽でいえばリズムパートあたりだろうか(笑)?

 閑話休題(笑)。そんな訳で、古典的ともいえるテーマを名作アニメ的な丹念かつ緻密な演出力でじっくりと読ませる『エマ』なのであるが、その副次的な魅力としては、登場人物同士の会話の軽妙さ、センスのよさもあげられると思う。以下には、その例のいくつかを取り上げてみた。

「私、もしかして気が小さいのかも。
今まで気がつかなかったけど」
「優しいんだろ」
「慰めてるの?」
「さてね」

「あなた、私があまり食べられないって言っておいてね。この前やっとウエスト22インチに戻したばかりなんだから」
「ウエストが20インチだろうが40インチだろうが、ドロテアはドロテアだよ」
「それも嫌だわ」


 なんだかべた褒めしてしまっている『エマ』であるが、これは実は森薫というマンガ家の商業デビュー作である。そう思って見直してみても、『エマ』の第1話あたりでも作画力、演出力とも「新人のデビュー作」という域ははるかに凌駕していると思うのだが、描き込みの緻密さや人物の表情の表現力などは、巻を追うにしたがって、より完成度の高い方向に進み続けている。あ、やっぱりべた褒めになるのでこれ以上はやめよう(笑)。

 因みにデビューの経緯は、メイドマンガ(笑)の同人誌活動をしていて、編集者の目に留まり……ということで、昨今でいえばそんなに珍しくもないパターンではある。

 ただ、「萌え」系ジャンルで同人誌が出自、というと、もう少し露骨に「萌え」のみを全面に押し出したキャラクター重視の作風のマンガ家〜同人誌デビューの女性マンガ家というと、高河ゆんとかCLAMPあたりが連想される〜が多い中、名作アニメテイストでストーリー重視の地味な作風、というのはなかなか珍しいケースかと思う。

 その、森薫の同人誌時代の活動については、『エマ』第2巻と同時発売された『シャーリー』に収録されている作品群で知ることができる。

「いえその…。スカートがぶわっと……。
 すみません。こういうのにあこがれてたんで…」

 ベネット・クランリー28歳独身(♀)。カフェーの女主人として、自分の働きで生計を立てているが、目下の悩みは親の残した一人暮らしには不相応な広い屋敷。働きながらでは掃除も庭の手入れも行き届かず、荒れ放題に荒れている(笑)。その悩みを解消すべく、メイドの募集広告を出した彼女のもとを訪ねてきたのはまだあどけなさの残る13歳の少女、シャーリー・メディスン。

 あとがきマンガによると、もともとは年上趣味であった森薫がアニメ『魔女の宅急便』を観て、本人曰く「13才少女メイド!!」という「変なスイッチが入って」描き上げてしまったのが『シャーリー』第1話とのこと(笑)。

 このヒロイン、シャーリーは、ベネットのもとに来るまでの経歴は不詳なのだが、年相応の女の子らしいことをあまり経験したことがないらしく、ベネットに与えてもらったメイド服がうれしくて仕方がない(笑)。で、ベネットが席を外した間に思わず鏡の前でくるくると踊ってしまう(笑)、そこにベネットが戻ってきて……と、いうのが引用した台詞(笑)。

 第3話では、ベネットのブロンドの髪やグラマラスな女性らしい体型、その体型にふさわしいコルセット、などに憧れるシャーリーの姿が描かれるのだが、どうも、このあたりのシャーリーの憧れの対象には、メイド服が好きで(笑)、マリリン・モンローが好きで(笑)、コルセットも大好き(笑)、という森薫本人の嗜好が大いに反映されているように思われる(笑)。いわば、シャーリーは森薫にとって、「萌え」の対象であると同時に、自分の分身でもある、と解釈できそうである(笑)。

 これに限らず、長編連載の『エマ』と違い、個々の短編は森薫にとっての「萌え」のシチュエーションをそのままストーリー化している、という印象が強い。また、『シャーリー』第1話の段階では、ペン先を替えることも知らずにマンガを描いていたとのことで、絵柄も荒削りではある。それでも、それらの作品が日常を細やかに描き出す、ある意味硬派な印象のものに仕上がっているあたり、流石というべきか? まあ、森薫は最初から森薫だったんだな、ということで(笑)。


 ダメだ(笑)。今、森薫の話をすると、何をどう書いてもべた褒めになってしまう(笑)! まったく(笑)、これでは先に紹介した「装苑」のコラムニストの人を全然笑えない(笑)。同じ穴のムジナである(笑)。

 と、いうわけで、最後のページはなるべく森薫以外の話をすることにしたい(笑)。

「おばあちゃん……。アメリアってね、とっても意地悪で冷たいんだよ」
「そうは思わないよ。すてきな子だよ」
「ーーそれにズボラだし、うるさいし、すぐ怒るんだよ」

 台詞は、ふくやまけいこの初コミックス『エリス&アメリア ゼリービーンズ』に収録の表題作「ゼリービーンズ」より。エリスは政府経営のエリート養成校に通う11歳の小学生。学校が休暇になるたびに、コンピュータのミスが原因で偶然知り合った駆け出し作家のアメリアの家に遊びにやってくる。引用した会話は、アメリアとケンカして家を飛び出したエリスが近所のおばあちゃんに慰めてもらっている、というシークエンス。大好きなアメリアをおばあちゃんに誉めてもらいたくて、わざと悪口をいっている、の図。デビュー作だけあって、本当に荒削り(笑)ではあるのだが、個人的には、今でも好きな作品集である。

 ふくやまけいこもまた同人活動が編集者の目に留まりデビューした女性マンガ家である。とはいえ、ふくやまけいこがデビューした1982年頃は、コミケ系の同人誌の人気作家が商業デビューして一気にブレイクする、というようなマンガ家デビューのルートが確立されていなかった時代でもあり、当時としては異色の経歴という感じであった(デビュー雑誌も徳間のリュウだったし)。

 そのデビューのきっかけとなった同人誌『ふくやまジックブック』も、マンガ同人誌ではなく、ふくやまけいこが自分の好きなアニメ作品(主に名作アニメ系と宮崎駿)についての思い入れを語った絵日記的なコラム(と『未来少年コナン』のおちゃらけパロディマンガ(笑))がメインだったのだが、森薫のあとがきマンガを読んでいて、なんとなく何かに似ているな、と思っていて、ある日ふと思い到ったのがその『ふくやまジックブック』だったのである。

 『〜ジックブック』の中では『パンダコパンダ』や『カリオストロの城』などへのふくやまけいこの思い入れがたっぷりと語られているのだが、そんな中に、宮崎駿アニメにおけるスカートや胸の肉の描写の正しさ、というようなページがあった。曰く、クラリスがしゃがめばスカートの後ろの裾は床まで垂れるし、ドレス姿でベッドに横たえられれば余った布はこう広がる、クラリスがルパンを身体で庇えば胸の肉はつぶれてこうなる、宮崎駿は男性なのにそういう普段は女性しか実感できないような些細な日常の現象をおろそかにしていない、云々(笑)。

 細部に宿る神を探す、という点では、ふくやまけいこや森薫と同じようなことを男性のおたくもしているかもしれない。ただ、同じ対象を同じように探したとき、女性の肉体を備えた人間にしか探し当てられない神もいるかもしれない(笑)。これは一種、ジェンダーギャップによる認識の変革ともいえるが(笑)、男性のおたくと同じ対象に対して、同じか、それ以上の思い入れを持って神を探してしまう女性はそんなに多くいるものではない(笑)。とはいえ、ふくやまけいこはまだしも、森薫の思い入れは、いささか過剰というべきであろう(笑)。本人も自覚はしているみたいだけど(笑)。


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