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第53回 “不条理の季節” | |
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掲載誌 | 糸納豆EXPRESS Vol.22. No.1.(通巻第37号) |
編集/発行 | たこいきおし/蛸井潔 |
発行日 | 2004/05/01 |
唐突ではあるが、結婚などということをしてもう2年と8ケ月ほど経ってしまった(笑)。因みにたこいの妻は、宝塚と演劇の熱烈なファン(笑)である以外は、基本的には普通の人なのであるが、たまにたこいの趣味(笑)の一部にピンポイント的に反応を示すことがある(笑)。
最近でいうと、アニメ『十兵衛ちゃん2』のオープニングの曲に妙にハマって「自分のテーマソングにしたい」とのたまってみたり(笑)、アニメ『プリンセスチュチュ』のマスコットキャラ(?)のうずらちゃんというのがお気に入りだったり、いろいろあるのであるが(笑)、今までの中で、最大のハマりものは、コレだと思う(笑)。
「実はこう見えても俺はネコじゃない。
ちよの父です。娘がいつもお世話になっております」
あずまきよひこ「あずまんが大王」第2巻収録の「初夢スペシャル」より、ちよ父初登場の巻。
このちよ父、ナイスバディだけど実はかわいいもの好きの榊さんの初夢の中に突如出現したネコなんだかなんなんだかよくわからないクリーチャー(?)だったのだが、引用した台詞は彼(?)がその初夢から退場するときに残した爆弾発言(笑)。それ以降、ちよ父は主に榊さんの夢の中や妄想の中で大活躍(?)をするようになる。
で、当然ながら、あずまんが大王グッズの中ではちよ父関連のグッズが数多くリリースされ、夫婦2人でハマったたこい家には、ぬいぐるみ、フィギュア、ペンケース、マグカップ、ファスナーマスコットなどなど、さまざまなものが氾濫しているのであった(笑)。どっとはらい(笑)。
そういえば、書くのがちょっと遅くなってしまったが、今回のテーマは「不条理の季節」ということで。
第49回でもとりあげた『あずまんが大王』であるが、その後のブレイクぶりには、我がことながら先見の明にちょっと気をよくしたものである。
因みに、第49回では、10歳だけど天才なので高校に転入してきたこども高校生のちよちゃんを「『あずまんが大王』が生んだ20世紀最後(笑)のスーパースター」と書いた覚えがあるが(笑)、そのちよちゃんの父である「ちよ父」は、『あずまんが大王』が生んだ21世紀最初(笑)のスーパースター、ということに便宜上しておこう(笑)。
ちよ父の登場は、『あずまんが大王』という作品にとって、のみならず、あずまきよひこというマンガ家にとっても、作品の幅、という意味で明らかにエポックメイキングであったといえると思う。
「ちよ。トマトも食べろよ」
「うん。トマトは大好きだよー」
「好きとか嫌いとかはいい。
トマトを食べるんだ」
「どうだ? うまいか?
トマトがうまいのか?」
「うん。おいしいよ」
「こんなに赤いのに…ちよはおいしいと言う…」
この微妙に噛み合わない、なんだかおかしな会話(笑)は、『あずまんが大王』3巻所収のやはり榊さんの初夢より(笑)。娘であるちよちゃんにトマトを食べさせるちよ父。
このちょっと不条理な味わいのギャグを、日常に立脚した、地に足の着いた『あずまんが大王』の世界観と無理なく調和させるためには、登場人物の夢(妄想)というのはうまい手だなあ、と思う。
ちよ父の登場によって、『あずまんが大王』は日常ギャグと不条理ギャグが微妙にミックスされた独特の世界を確立した、と思うのである。
その二つの要素のうち、地に足の着いた日常ギャグの部分は、アニパロマンガという出自が近いことも含め、ゆうきまさみの作風に近いと思うのだが、不条理ギャグの方はどうだろうか?
「なはははははははははははは」
表情があるんだかないんだかよくわからないぼーよーとしたキャラクターと、不条理ギャグといえば、まず初めに思い出されるのはやはりこれではあるまいか?。
台詞は、吾妻ひでお『ひでお童話集』の中の一編「王様」より。この連作は、言わずと知れた不条理ギャグの名手、吾妻ひでおの脂ののりきった時期の名品かと思うが、現在はちくま文庫の『吾妻ひでお童話集』でまとめて読むことができる。
その連作の中でも、この「王様」は、3人の王子役として、三蔵、不気味、ナハハという吾妻ひでおの不条理スターキャラクターの中でも最強の3人を惜しげもなく投入しており、4ページという短いページ数の中で、それぞれの個性が存分に発揮されまくっており、今読んでも思わずほほが緩んでしまう(笑)。
ちよ父にハマりまくっている自分をふと冷静に見返してみたとき(笑)、その嗜好に到る萌芽を自分の高校時代にみつけてしまった(笑)。たこいの場合、マンガを読み始めた小学生の頃に、『ふたりと5人』などは読んでいたものの、カルト的マンガ家としての吾妻ひでおを再発見したのは、マンガ少年誌上のみなもと太郎氏のコラム『お楽しみはこれもなのじゃ』に、『やけくそ天使』がとりあげられているのを読んでのことであった。
「とーとつですが アルジャーノンに はなたばをあげてやってください」
みなもと太郎氏が『アルジャーノンに花束を』を元ネタにしたこの吾妻ひでお『やけくそ天使』の名台詞をとりあげたのは、まだ『不条理日記』などが世に出るより前であり、けだし慧眼というべきであろう。
そういえば、ここのところ何の気なしに、本コラムを毎回「唐突ではあるが……」で書き出すようにしてしまっていたが(笑)、このフレーズの自分の中でのルーツは、この台詞にあったに違いない、ということを、今回台詞を再録していて初めて気がついてしまった(笑)。全く、みなもと太郎先生には足を向けて寝られないな、これは(笑)。
閑話休題(笑)。女の子はかわいらしく、異生物はぐちゅぐちゅの触手だらけでありながらどこか愛嬌があり、不条理キャラクターにはそれぞれに不思議な味わいがある。下品なネタを扱っても、どこか一本通った品が感じられる。もし1980年前後の吾妻ひでおのようなマンガ家が現代にいたら、秋葉原その他のおたく系ショップはそのキャラクター商品であふれかえるであろうことは想像に難くない(笑)。
1992年に太田出版から上梓された短編集『夜の魚』の解説で、大塚英志氏は「吾妻はおたくたちが最初にかつぎ上げたまんが家だったといえるかもしれない」と述べているが、2004年の現在、その時に始まった流れは、断片化、細分化、特殊化などなどをしつつ、マンガ、アニメ、ゲーム、その他のいわゆるおたく文化全体の中に連綿と受け継がれているといっていいかと思う。
因みに、同じ解説の中で、大塚英志氏はもうひとつ、マンガのジャンルとしての「不条理まんが」と「ロリコンまんが」は、吾妻ひでおが形式として初めて提示したものである、と指摘している。
私は落ちついて安心だった
その人の声もしぐさも普通に思えた
さそわれて私は林の奥へ入りました
このモノローグは、吾妻ひでおの純文学シリーズの中でも代表作といえる、「陽射し」より。
男の子に告白されると泣き出してしまうような純情な主人公の少女が、下校途中の林の中で異生物と出会い、触れ合い、そのことを日記に書き記す、というこの短編において、異生物が「異性」であり、触れ合いが(おそらくは)「強姦」の暗喩であろうことは明らかで、一人称の少女の視点でその事件が語られることで少女の「狂気」がほの見える、という仕掛けは、吾妻ひでおがギャグマンガ家として認識されていた当時、衝撃的であった。
因みに、この「陽射し」を含むいわゆる純文学シリーズの掲載誌が、自動販売機でしか売られていない三流エロ劇画誌『劇画アリス』であったという点もまた、当時としては衝撃的であった訳だが、純情な高校生(笑)であったたこいは、当時から今に到るまで、それらの掲載誌の実物を目にしたことはない(笑)。
「陽射し」より後にマンガ奇想天外に掲載された「帰り道」では、主人公の少女の周囲のものや動物、人間が徐々に触手だらけの化物に変貌していく様がちょっとコミカルに描かれている。その変貌のキーはどうやら少女に対する「害意」であるらしく、最後まで人間の姿をしていた塾の教師も、少女をレイプしてしまうことで化物の仲間入りをすることになるのであるが、性的暴力という過剰刺激により、少女が現実を拒絶する、というモチーフでは、この2作品は共通しているといえる。
「やめて。あたしはそんなこと望んでなんかいないわ」
こちらもまた、純文学シリーズの一編「海から来た機械」より。
主人公の少女はある日海辺でみつけた奇妙な機械を家に持ち帰る。その機械はどうやら人間の潜在願望を読み取って形にする機能を持っているらしく、初めのうちは少女の空腹感や物欲に反応してラーメンやラジカセなどに姿を変えていたが、次第に、少女が自分でも目をそらしている性欲や愛憎の感情にまで反応するようになり……。
この作品などは、ヒロインの少女に、男性の願望の具象化ではない、ちょっとリアルな「自我」が感じられるという点で、純文学シリーズの中でも異彩を放っている、と思う。
とはいえ、「性と対峙する少女」を真っ向からテーマにした作品は、純文学シリーズと銘打たれる作品群の中でもほんの数編であり、過半の作品は、掲載誌(笑)の本来の読者(笑)が本来の用途(笑)に用いることもできる、願望充足的なもので、むしろ、そちらの方が、「ロリコンまんが」のルーツであったといっていいと思う。
−−−あれから、彼女はどうしただろう。
まだ沼の底にいるか、それとも誰かが−−−
−−−さて、それでは僕のほうはというと、
実は今でも沼の底にいるのだった。
このモノローグは、榎本ナリコがビッグコミックスピリッツに発表した連作『センチメントの季節』の中の一編「沼の底で」より。
10代前半の少女たちを主人公に「性」をモチーフとした連作が一大ブームを起こしたことも、今は昔、という気がする(笑)。援助交際などの社会問題が背景にあったことと、作者が女性であったことが一種オブラートの効果を果たしたという気がするが、『エヴァンゲリオン』の同人活動などでも知られる榎本ナリコのちょっと貞本義行的タッチの画風で展開される中学生(〜高校生)の少女たちの適度にブンガク的なライトエロマンガは、オブラートをはがしてみれば、正しく「ロリコンまんが」の末裔だと思う。同じスピリッツで、ちょっとブンガクの入ったエロマンガ、ということで、山本直樹の系譜と捉える人が多いとは思うが、その山本直樹=森山塔の出自自体、80年代「ロリコンまんが」そのものなのであるからして(笑)。
その『センチメントの季節』、「性」というモチーフこそ一貫してはいるものの、テーマの突っ込み方はけっこうピンキリな印象がある(笑)。
その中でも、クーラーの壊れた熱帯夜に仕事場に転がり込んできた少女と共にした数夜のことを中年フリーライターが回想する、というこの「沼の底で」は、男性視点の物語であることもあり、やや願望充足的な印象が強い。そして、このモノローグは、吾妻ひでおのある作品を想起させる。
女の子はそれきり現れなかった。(中略)
短い夏は終わって、もう川で泳ぐものもいない。
おれは冷たい水の中で、あいかわらず。
これは、吾妻ひでお純文学シリーズの一編「水底」より。普段は川の底に住み、水遊びに来る子供たちに軽いいたずらなどをしていた水妖(?)の「おれ」は、ある日川べりにいるところを一人の少女に姿を見られるが……。
少女と「非日常」を過ごした男が、日常に戻りそのことを回想する、という物語の基本構造もさることながら、男性視点で少女を「とらえがたい異質なもの」として描く、というテーマ性でも「沼の底で」と「水底」は通底していると思う。
『センチメント〜』の中に、たまに男性視点で願望充足的な短編が出没するのになにか引っかかりを感じてはいたのだが、この「沼の底で」を読んだとき、「そうか、純文学シリーズか(笑)」と、たこい的には非常に腑に落ちたのを覚えている(笑)。
とはいえ、あずまきよひこにしても榎本ナリコにしても、たぶん特に吾妻ひでおを意識してこれらの作品を書いたのではないと思う。過去の作品を消費し、自分の作品も消費されるのは、今やマンガ家にとっては「環境」の一部といっていい。
吾妻ひでおをリアルタイムで経験した世代は、そんな消費の連鎖の起点を目撃したのかもしれない、と、考えてみると、感慨深いような深くないような(笑)、何にしても新世紀ではある(笑)。
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