お楽しみはこれからだッ!!
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第5回 “ハッピー・エンドが好き”
 掲載誌 糸納豆EXPRESS Vol.8. No.1.(通巻第20号)
 編集/発行 たこいきおし/蛸井潔
 発行日 1990/8/16


 90年代もますます元気な連載コラム“お楽しみはこれからだッ!!”。第5回は丸々一年振りの古巣なんだな、これが。  えっと。今回のテーマは“ハッピーエンドが好き”てな訳で…。

「ごめんなさいー。忘れちゃってたァ───ッ」
「オ──、ノォ───。信じらんねーッ。なに考えてんだこのアマ!」

 荒木飛呂彦の最高傑作『ジョジョの奇妙な冒険』第2部ジョセフ・ジョースターその誇り高き血統、感動(?)のフィナーレがこの会話。シーザーの死からワムウとの激闘、カーズとのラスト・バトルに到るまで、まがりなりにも重厚に展開されてきた物語がこの最終回の、ジョセフとスージーQの大ボケなやりとりで一気に落とされてしまう様はほとんど落後のさげ! これに匹敵するのはマイクル・コニイ『冬の子供たち』のラスト1ページ(笑)くらいのものであろう。

 第一部の主人公ジョナサンが完全燃焼型で、自らの死をもって物語の幕を閉じたのと比べ、第二部はジョセフの性格からして“感動的に死ぬ”なんてことは絶対ないだろうと予想はしていた。だから、カーズもろとも感動的に火山で吹っ飛ばされても必ず生還するだろうと思ってはいた。しかし自分の葬式の場にいきなり現われてあれだけ大ボケかましてくれるとは! 流石は荒木飛呂彦本人が“最もお気に入りのキャラクター”と言ってるだけのことはある。あと、この最終回を含めても4回しか登場してないけど、スージーQにはぜひ助演女優賞をあげたいな。


「また…歩道橋からとびおりるつもりかと思って、心底あせったんだから、オレ…」
「うぬぼれ屋……。
 でも、許す……」

 もうかれこれ4年も前になりますか。僕がまだ東北大学農学部農芸化学科の三年生だった時、学生実験で同じ実験台だった奴が、毎月別コミと別マを買ってきては、実験室で読んでいた(当然、皆で回し読みをしていた(笑))。 「少女マンガの恋愛は簡単でいいよな」

…と言いながら『前略・ミルクハウス』を毎月読んでいた彼の名誉のために言っておくならば、彼はSFファンでもコミックファンでもない、ごくまっとうな、性格も明るい普通の大学生でありました。

 ま、世の中にはこのように現実の恋愛に疲れ果てて少女マンガに安息の地を見出す人もいます。そんなに大勢いるとは思えないけどね。

 僕個人について言えば、体が無性にハッピー・エンドの他愛のない少女マンガを求める時、というのがある。そーゆー時というのは他にやるべき事はいくらもあって、しかしわかっていても体が動いてくれない、頭も働かない。気分的に煮つまりきった、どーしようもない状態。高校の頃だと大体太刀掛秀子あたり。大学に入ってからでも、試験前にいきなり古本屋から『花ぶらんこゆれて』を買い込んできたりしたこともある。

 最近じゃ自分でもわかってきて、少女マンガ読みながら“これは体が危険信号出してるなあ”とか自覚している。もっとも自覚したからといって事態は何も好転する訳じゃなくて、ただ単に自覚しているってだけの事なんだけど(笑)。

大学三年の終わり頃、僕は四年への進学のかかった後期試験の最中、ひたすら『ミルクハウス』に読み耽けっていた。三年生の一年間で、予定していた個人誌は一つも出せず、書く原稿はどれもこれも満足のいかないものばかり。何度も何度も書き直したあげくに自主ボツにした原稿は原稿用紙にすると百枚を軽く越えてる。笑い事ではない。

 その不本意な一年間のツケが一気にその時期に噴出していた。そーゆーような訳で、僕は今でも『ミルクハウス』を読み返すと、25年の生涯の中で最悪のスランプ状態を思い出すのである。

 で、当時毎日のように読んでいたのは『ミルクハウス』の6、7。『ミルクハウス』の中で最もよいのが藤くんと結衣ちゃんがらみの話だというのは衆目の一致するところであろう。だって涼音と芹香と槙原さやかの三角関係って『なぎさボーイ』『多恵子ガール』のデッド・コピーなんだもん。この槙原さやかってのがまた渡辺多恵子〜氷室冴子描くところの槙修子とくりそつ。外見だけでなく性格、態度、その他もろもろ。

 と、いう訳で、台詞は藤くんと結衣ちゃんのハッピー・エンドより。しかしやっぱ、『ミルクハウス』って失敗作だよね。連載が長いわりに個々の話(エピソード)のメリハリがなくて散漫な印象が強い。川原由美子のベストなら、初期では『KNOCK!(ノック)』、後期で『CLIMB THE MOUNTAIN』を推したいところだな。


「大丈夫…! うちがいるからね!
 守ってあげるってば!!」
「…ああ…。
 頼むしかねーか────…」

 よくいえば“安定”している、と言えるのかもしれない。しかしこれほど何年も変わらない人も珍しいと思う。

 もちろん樹なつみのことである。

 そりゃ確かに絵柄が若干変わりはしたかもしれない。しかしそれは、描き慣れて自然に変わったという程度で、特別上手くなった訳でも、下手になった訳でもない。

 肝心のストーリーにしても、10年間もマンガ家やってるとは思えないくらいなんの進歩も退歩もない。

 ちょうどこの対極にいるのが星崎真紀という人だと思う。これほど絵の面でも話の面でも“努力”のにじみ出るマンガ家というのもめったにいない。

 樹なつみという人はある意味で偉大なのかもしれない。この変化がないというのは、もしかすると下手に“成長”したりするよりずっと難しいという気がする。おまけに樹なつみは筆が速い。凄く速い。異常に速い。

 たとえばLaLaで前後編掲載のマンガが載るとすると、これが他のマンガ家なら80ページくらいが普通である。しかし! 樹なつみの場合160ページ前後編とか平気でやってしまう。本誌の連載と並行して増刊で80ページ一挙掲載とかもザラのザラ。しかも(本人の言うことを信じるならば)一度も〆切を破ったことがない

 マンガ家の鑑(かがみ)かもしんない(笑)。

 もっとも作品の方はエンタテイメントの域を出ることはけっしてない。近親相姦だのなんだの、扱ってるネタはけっこう重いんだけど、そういった事柄はすべて主人公達をよりカッコよくするためのガジェットとしてのみ存在している感が強い。暗い過去のひとつも持ち合わせてなくちゃ、ヒーローなんてつとまらない、ってとこかな。

 とはいえ、昨今のLaLaの中で樹なつみとかひかわきょうことかの“昔ながらの”作品を読むと妙にほっとしてしまうというのも、また事実なのだった。近頃、安心して読める質の安定した作品が少ないからねえ。

 そう! ひかわきょうこという人もやっぱり進歩も退歩もない人で……と、いう話をすると長くなるから、それはいったん置いとこう。スペースもない。

 んで、台詞はというと、『パッション・パレード』のラスト・ページより。

 このつぼみと零というとりあわせも、半ば予想されてたというか、収まるべきところに収まったというか、ハッピー・エンドといえばその通りなんだけど、よくよく考えてみると、黒人のカッコいいねーちゃんとくっついた霖と比べると、血縁のつぼみとくっついてしまった零は結局穂津見家の血の妄執から逃れられませんでしたってことになるんでないかい。もしかするとこれほど暗いラストってのもないのかもしれないね。最も相手があのつぼみだというのが、救いといえば救いなんだろうなあ(笑)。


 少女マンガ〜ハッピー・エンドとくれば、それはやはりやる事はひとつしかない。

 しかしただ単に男の子と女の子がくっつくというだけの場面(シーン)の台詞ばかりたてつづけにピック・アップしていると、実際、頭の腐ってくるものはある。

 2ページ目の『ミルクハウス』のところでも描いたけど、精神衛生上、非常に好ましくない。2ページ目の「ミルクハウス」のところでも書いたけど、精神衛生上、非常に好ましくない。

 だったら読まなきゃいいんだよ(笑)。

 それができねーから…ヌウウ。かきたくもねー原稿をかいているんだぜ(C空条承太郎)(笑)。

  でも、ラスト・ページくらいは毛色の変わったハッピー・エンドで締めよっと。

「珍しいことじゃないね。知らない自分の性格(ペルソナ)とつきあうなんて。
 知らない人物(パーソン)とつきあうのと同じようなもんだ」
「……そうだね。もしかしたら、愛せるやつかもしれないし」

 二人つづけてLaLaのマンガ家になってしまって恐縮だが、90年3月号で完結した、かわみなみ『インナー・カルテット』より。

 この台詞は、ちょっと、いいよね。このコラムは“マンガの名セリフ”とかいいながら、その実、適当な台詞をタネにしてそのマンガの話をするのを主眼にしてる訳だけど、これは、正真正銘、名台詞の名に値すると思う。

 かわみなみ、という人は『シャンペン・シャワー』のイメージのみ強烈で、最近のLaLaの中ではむしろひたすら地味な印象の人だけど、僕は『シャンペン・シャワー』以降の『マリコ闘争(ウォーズ)』『インナー・カルテット』といった小味のきいた作品の方が好き。

 『インナー・カルテット』は、厳格な祖父に育てられた青年ステュアートが心の中に作り上げてしまった三つの人格、アウトローで強固な意志を持ったジュリアン。やさしい性格の少女カーリーン、犬のウルフ。この4人(3人と一匹)と、彼らの人格をそれぞれに認めて、真摯に接する友人ダニエル、とその周辺の人々の姿をコミカルに、時にシリアスに描く。

 本来は一人の人間(ステュアート)の性格のある一面である彼らは、それ故の自分たちの不完全さに悩む。その過程で、抑圧から解放され“自分”に目覚めていくステュアートの中に、一人、また一人と統合されていく描写は圧巻!

 四重人格の、本来の一人の人格への統合というモチーフを通して、登場人物たちのそれぞれの成長を描いたこの『インナー・カルテット』は、現代版“教養小説(ビルドゥングス・ロマン)”マンガ、と呼ぶにふさわしい快作だと思う。

 しかし近頃LaLaも花ゆめもつまんない。中堅どころの連載が沈滞してるせいもあるけど、やはり新人のレベル低下が著しい。よくあんな作品でデビューさせるもんだ。たぶん投稿作全体の水準が著しく低下してるんだろうなあ。寒い時代になったものだ。


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