お楽しみはこれからだッ!!
YOU AIN'T READ NOTHIN' YET !!

第36回 (アニメと原作についての一考察)
 掲載誌 プラネットパワーメイクアップ!
 編集/発行 田中寿治/SMAD(セラムンアダルト同盟)
 発行日 1995/8/20


 唐突ではあるが、最近森雅裕の『さよならは2Bの鉛筆』(中公文庫版)を読んだ。横浜の名門音楽系高校に通うちょっと斜に構えた女の子を主人公にペダントリーの薬味を添えハードボイルド風に仕立て上げたなかなかキュートな小説で、すっかり気に入ってしまったのであるが、読んでいたらこれととってもよく似た設定の少女マンガを思い出してしまったので、今回はその話から。

「ねえ。これ相当古いし…手書きだよ。
 ひょっとしてほんものの、シューベルトの直筆じゃ…」

 台詞は『ママレード・ボーイ』で今をときめく吉住渉の初の連載作品『四重奏ゲーム』より。

 とある音楽専門の中学で、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの各学科でそれぞれトップに立つ四人の生徒が集められる。海外で名を成した日本人ヴァイオリニストの久しぶりの来日を歓迎する記念演奏会で四重奏を組むよういい渡された四人だが、性格の不一致(笑)からなかなか調和の取れた演奏をすることができない。そんなある日、ひょんなことから入手した古い直筆楽譜に犯罪のにおいをかぎつけた四人は事件についていろいろ探り回る中次第に友情を深めていく……。

 そんな訳なんだけど、主人公が音楽系の学校の生徒である点、楽譜が事件のキーとなる点、主人公の生き別れの片親が外国で成功したヴァイオリニストである点、そのヴァイオリニストが持っているヴァイオリンが「ステラ」というニックネームを持った名器である点、などの基本設定が実は『さよなら〜』と酷似しているのであった(笑)。


 まあ、『さよなら〜』のヒロインはピアノ科で『四重奏〜』のヒロインはヴァイオリン科、生き別れの片親も『さよなら〜』は母親だけど『四重奏〜』では父親だし、『さよなら〜』では楽譜がキーになる事件とヒロインの片親が登場する事件は別々のエピソード、と、細かな点ではいろいろ相違はあるし、『さよなら〜』のハードボイルド・タッチに対して『四重奏〜』は赤川次郎風(笑)ライト・ミステリ、と、でき上がった作品の感触はまったく似てはいないんだけどね(笑)。

 それぞれの作品の発表時期からすると、吉住渉が『さよなら〜』を下敷きにしていたと考えてもいいかとは思うんだけど(『さよなら〜』のハードカバー版刊行が1987年、『四重奏〜』の連載・刊行が1988年)、前述の通り作品どうし比べてもそんな「盗作だ」とかいうようなものではないので、まあご愛敬、といったところかな(笑)。

 『四重奏〜』は新人の初めての連載にしては、おおむね及第点の出来といっていいと思う。絵柄が荒削りなのは当たり前とはいえ、キャラクターの表情が実に生き生きしてるし、画面構成にしてもストーリーにしても基本的なツボはきちんと押さえられている感じ。

 それから『ハンサムな彼女』の連載を経て『ママレード・ボーイ』に到る訳だけど、その間、とりわけカラー・イラストの出来という点では格段の進歩が見られる。書店で『ママレード〜』の単行本が平積みになっていると、これが目をひくことこの上ない(笑)。

「鈴木さん!! ずっと…言いそびれてたけど、今日こそはっきり言おうって決心してきたんだ。
 おれ…。
 おれ、鈴木さんが好きだ。
 つきあってほしいんだ!!」
「…………。
 あたし。もう、つきあってるつもりでいたんだけど…」
「え!?」
「だってあたしたちほとんど毎日電話してるし、週に一回はこうしてデートしてるでしょ。
 こーゆーのってふつうつきあってるっていわない?」
「…いや、でも。
 友達として…、なのかと…」
「そういえばはっきり好きだって言われたことなかったわね。
 でも須王くん態度に出てるから」
「…………」

 と、いう訳で台詞は『ママレード・ボーイ』より。個人的にちょっと気に入っているバイキャラクターどうしのカップル、須王銀太と鈴木亜梨実のでき上がりの会話(笑)。

 明るくて誰からも好かれる主人公の小石川光希とその相手役に頭脳明晰スポーツ万能容姿端麗でいささか醒めたタイプの松浦遊、それに熱血テニス少年の銀太と勝ち気で小悪魔的な美少女の亜梨実、加えてどちらかといえばオブザーバー的な役割を振られているちょっと大人びた秋月茗子、と。

 『ママレード〜』のキャラクターはこの5人だけじゃないんだけど、この5人の関係をみていたらなんとなく氷室冴子の『なぎさボーイ』『多恵子ガール』を連想してしまった。直接三角関係に関わるそれぞれタイプの異なる4人とその関係に直接はタッチしない傍観者・相談役の立場に一人、という取り合わせは、まあ話を作る側の立場からすると、ストーリーを動かしやすいんだろうなあ。

 とはいえ、『ママレード〜』の場合はこの基本の5人の周囲にまたタイプの異なるキャラクター群が配置され、さらにいくつかの三角関係が派生しているのであった。


 因みに、『なぎさ』『多恵子』を思い出したのは亜梨実というキャラクターが陸上部のスプリンターだったからなんだけど、銀太と亜梨実の組み合わせというのは、キャラクターの類型からするとなぎさと槙修子に相当するかな。してみると『ママレード〜』におけるメインキャラの関係は『なぎさ』『多恵子』でのなぎさと北里の立場を入れ換えたようなものか(笑)……と、いうような氷室冴子を読んでない人にはわからない話はこれくらいにしておいて……(笑)。

 吉住渉の美点ということでは、絵柄、キャラクター、ストーリーのいずれもセンスよく綺麗にまとまっている、という点が挙げられるかと思う。タイトルにしても、使っている単語単語はありふれたものなのに『ハンサムな彼女』『ママレード・ボーイ』のように組み合わせられると、これはかなり目をひくタイトルになると思うのだけど、そういう言語感覚まで含めて、ライトでポップでファッショナブル。

 ただ、あまりにもさらりと読めてしまってあとになにも残らないという読後感は、なんとなく食い足りなくはある。

「ねえ。風が冷たくなってきたよ。
 カゼひいちゃうよ。
 ね、帰ろ?」
「あ──…。
 そういや、ちょっと寒いな」
「そういやって…」
「あっためてくれる?」
「え…」

 と、こちらは主役の光希と遊の方のでき上がりのやりとりから。

 そういえば先日たまたま日曜日の朝早くに目が覚めたので『ママレード〜』のTVアニメを観たのだが、したところ、光希のバイトしている店の周辺の構造物になにやら見覚えが……(笑)。

 こ、これは「恵比寿ガーデンプレイス」ぢゃないか(笑)。

 うむむ(笑)。昨年秋のオープン以来TVドラマのロケによく使われているとは聞いていたが、まさかアニメにまで……(笑)。思わず目が点になってしまったことである(笑)。

 しかしそれで考えたのだけど、生活感の欠如したカッコいい登場人物たちがひたすらくっついたりはなれたりくっついたりはなれたりくっついたりはなれたりするというのは、いわゆるところのトレンディ(死語(笑))ドラマに典型的なパターンといってさしつかえあるまい。

 TVアニメでトレンディ(死語(笑))ドラマをやる、というのが企画当初からの目的だったとするならば、それはそれで慧眼ではある(笑)。過去でも未来でもない日常的な現代の日本を舞台として、魔法(笑)やSF的な設定(笑)も一切存在せず、スポーツはするけどあくまで趣味・娯楽の範囲内で、生死に関わるような重大な事件も一切起きることはない。これに近いTVアニメというと『みゆき』か『めぞん一刻』あたりになると思うが、トレンディ(死語(笑))という要素をここまで全面に押し出したアニメは初めてかも(笑)。(

 原作の『ママレード〜』も少女マンガ版トレンディ(死語(笑))ドラマ、と考えると(その食い足りなさも含めて)かなり理解しやすいものになる。トレンディ(死語(笑))ドラマ的世界が現代の女の子にとって一つの夢であり、少女マンガの目的が女の子の夢の具現化であるとするならば、『ママレード〜』というマンガは極めて現代的な形での少女マンガの王道といっていいかもしれない。


 しかしここまでのところ読み返してみると歯に衣が2〜3枚はさまったような文章ではあるなあ(笑)。吉住渉の作品はテーマ性の希薄な恋愛シミュレーションで話を「作家論」的な方向に持ち込みにくいので表面レベルの分析に留まらざるを得ない、ということなんだけどね(笑)。アニメ版にしても『キャンディキャンディ』効果(週刊ペースのアニメが月刊の原作のエピソードを瞬く間に食い潰す)でエピソードが無限増殖してはいるものの、基本的には原作のラインを踏み外すものではないし。それと比べると、『セーラームーン』というのは、原作とアニメの間に常に何らかの緊張関係が感じられ、それぞれにテーマ性の相違などが存在するので、話の種としては『ママレード・ボーイ』よりはるかに旨味のある作品ではある。

 よい機会なので自分の中での『セーラームーン』という作品についての総決算をしてみる。自分自身もはや『セーラームーンSS』には完全に興味を失っているので、こういう話をする機会はおそらくこれが最後だろう。「作家論」という観点では、原作者武内直子に対する、アニメ側の二人のSD(シリーズ・ディレクター)、佐藤順一、幾原邦彦のそれぞれのテーマ性を比較していくことになるかと思う。

 ──エンディミオン
 大好きよ
 はじめて 恋した たったひとりの あなた
 もしも 生まれかわっても
 きっと また あなたに 会うわ
 きっと また 恋をするわ あたしたち

 若干の異論はあるかもしれないが、原作のマンガ版『セーラームーン』というのは、常に主人公たちが何らかの因縁に支配されており、登場人物のうち誰かの自己犠牲が話のキーとなる。

 第一部「ダーク・キングダム編」では敵とのラストバトルにおいて主人公月野うさぎ〜セーラームーンは敵の手に落ちた地場衛〜タキシード仮面と差し違え、残りのセーラー戦士はうさぎのために自らの命を投げ出す。メインキャラクターのほとんどすべてが自己犠牲を行なっているといっても過言ではない。ストーリーを支配するのは前世の世界における月の王国と地球との確執、及び月のプリンセス、セレニティ(前世のうさぎ)と地球国の王子、エンディミオン(前世の衛)とのロマンスである。

 第二部「ブラックムーン編」では、敵の手に落ちたちびうさ〜ブラック・レディを救うために、セーラープルートが犠牲となる。ストーリーの骨子をなすのは、30世紀の地球を滅ぼしたブラックムーンの20世紀への侵略であり、第一部が前世からの因縁による戦いだったのに対して、第二部はあるべき未来をねじ曲げようとする敵との戦い、未来との因縁による戦いといっていいだろう。

 第三部「デスバスターズ編」では、土萌ほたるの自己犠牲〜うさぎの自己犠牲〜覚醒したセーラーサターンの自己犠牲という三重の自己犠牲によってストーリーの収拾がはかられる。敵であるデスバスターズ自体は(異次元からの干渉者ではあるものの)現代の時間軸でリアルタイムな侵略(笑)を行なっているのだが、デスバスターズの周囲に出没する新しいセーラー戦士たちを介して、やはりストーリーは過去からの因縁という色彩を強くする。

 原作においては、セーラー戦士たちは常に事件の全体像がわからないまま、周囲の状況に命じられるままに戦っているといった感が強い。もちろん表面的には主人公であるうさぎの強力な意志力がストーリーの趨勢を決する、という構成を取ってはいるが、客観的にみて原作の月野うさぎは「巻き込まれ型」の受動的な主人公、と考えた方が妥当かと思う。


 もちろん、そういった基本設定はアニメにも共通するものである。しかし原作とアニメとは、日常生活の描写に対する重きの置き方という点で決定的に異なっている。原作ではストーリーの流れは一貫したものであり、うさぎたちの中学生としての日常といったものはメインのストーリーに対してはあくまでサブの位置を越えるものではない。一方、アニメは東映の特撮ヒーローものの伝統を受け継いで(?)物語の根幹に関わる設定編以外は一話完結という形式を取っているため、どちらかといえばむしろうさぎたちの日常を描くことの方がメインの位置にある。

 また、原作の『セーラームーン』から受ける印象は「シリアス」「ロマンチック」が基調であり、アニメのようにギャグが主体ではない。もっとも顕著な例は、タキシード仮面の存在である。ネーミングからしてギャグとしか思えない(事実アニメではギャグのネタである)このタキシード仮面、原作では「アルセーヌ・ルパンのような」かっこいいヒーローとして大真面目に描かれている。

 そういった違いが最も顕著に現れていると思うのが、原作の第4話、アニメの第22話の仮面舞踏会のエピソードである。D国大使館での晩餐会に変身ペンでプリンセスに変装したうさぎが潜り込み、やはり招待客に紛れて潜り込んでいたタキシード仮面と出会う、というエピソードであるが、原作では必要十二分にロマンチックな演出を施されているこのストーリーをアニメのギャグの味の方が色濃いタキシード仮面といささか破壊的な性格のうさぎが演じると、これはかなりの違和感がある(笑)。

「プリンセスなんていわれても、ちっともピンとこないし、うれしくもなんともないわよ!
 あたしは月野うさぎよ!」
「うさぎ!
 あなたまだ使命のことがわかってないの!?」
「使命なんて知らないわよ、もう! 前世がなんだっていうのよ! 関係ないわよそんなもの!
 なによ、みんな! あたしはもう戦いなんてやなの!
 みんなが……みんなが衛さんみたいになったら……。あたしそんなの見たくない!」

 この会話はアニメの第35話、前世の記憶を取り戻した直後のうさぎの激白から。

 原作では現在を生きているうさぎたちの人格とその前世や未来の人格とが完全にイコールであるような描かれ方をしている。例えば日渡早紀『僕の地球を守って』のような前世の記憶、人格と現世でのそれとの葛藤といった描写はおよそみられない。うさぎを含めた全員が前世からの因縁と自分の使命に唯々諾々として従っているように見える。

 アニメでも、引用したうさぎの叫びに先立つシークエンスでは、うさぎ以外の四人のセーラー戦士は自分の前世と使命を何のためらいもなく受け入れている。それに対して、前世から降りかかってくる自分の運命に素直に従って敵と戦うのではなく、そういう諸々の因縁にはっきり異を唱えることができる。それがアニメのうさぎというキャラクターであり、極言するならば原作とアニメとの相違はうさぎというキャラクター一人に集約できるといっていい。

 引用した台詞の最後の部分にみられるように、前世からの因縁による戦いより現世での友人たちの方を大切に思う。今を生きている自分の当たり前の日常を大切に思う。『セーラームーン(無印)』のクライマックスは、そんなうさぎの性格設定がなくては生まれなかったに違いない。

 アニメ『セーラームーン』の魅力はうさぎたちのおきらくごくらく(死語(笑))な日常にこそあり、『無印』のクライマックスはその作品特性を最大限生かし切ったものであったといえる。


 『無印』のクライマックスが示したものは「普通の女の子にとっての戦う理由」とでもいうべきものであった。ひょんなことから世界を守る立場に立たされてしまった普通の女の子が戦うのは、単に「世界」とか「地球」とか「人類」を守るというようないかにも大義名分的な理由からではなく、前世からの因縁に決着をつけるというような他律的な理由でもない。現在を生きている自分たちのなんでもない当たり前の日常を守るためにこそ、彼女は積極的に戦う。それが『無印』の示したヴィジョンであった。

 そのヴィジョンを最も具体的に示した『無印』最終話は幾原邦彦の演出によるものであったため、解釈にやや迷うのではあるが、『無印』全体を通してのテーマ性は、単独での演出作品こそ少ないもののキーとなるエピソードの絵コンテには必ず手を入れていたとされるSDの佐藤順一から出たもの、と解釈してまず間違いはあるまい。

 それに続く『セーラームーンR』「エイル&アン編」はアニメオリジナルであるが、『無印』の世界観を継承したそこそこの好編といってよいかと思う。「エイル&アン編」は、『無印』のラストにおいて原作とはまったく異なる展開により主要キャラクター全員をそれまでの戦いの記憶をリセットした状態で転生させてしまったために原作の展開との間に生まれたギャップを埋めてメインストーリーを「ブラックムーン編」に繋げる緩衝材という役目も持っていたのかもしれない。とはいえ、むしろ「ブラックムーン編」よりもアニメ版らしさがよく出ており、一定の質を保っていた。

 それに続く、『』の本編でもある「ブラックムーン編」からSDが幾原邦彦に交代する。そこで幾原邦彦が展開しようとした(結局失敗に終わった)テーマは明らかに『無印』のヴィジョンから派生、深化したものである。

「まもちゃん。そんなの信じられるわけないよ。だって、あなたはプリンス・エンディミオンで、あたしはプリンセス・セレニティだったんじゃない。あたしたち、生まれる前から恋人どうしで……」
「だから、そういうのがいやになったんだよ!
 今のオレがどうしてそんな過去のことでお前とつきあわなくちゃいけないだ! オレは……」

 「ブラックムーン編」の冒頭2話の絵コンテを切った幾原邦彦が打ち出したのは、前世からの因縁のほとんど完全な否定であった。確かアニメージュのインタビューか何かで本人もいっていたのだが、前世からのつながりということではなく、現在のうさぎと衛にとって、お互いの存在とは一体なんなのか。「ブラックムーン編」はそれをテーマにするべく冒頭の2話でレールを敷かれた。

 しかし、うさぎと衛が別れていて、なおかつ衛とタキシード仮面を話に絡ませる、というのは、ちょっと考えただけでも、非常に厄介なシチュエーションである。そのシチュエーションを毎回の話の中できちんと維持しつつ、うさぎと衛が過去のしがらみからではなく現在の自分たちを認めあって再び結ばれるまでを描くには、SDとしての幾原邦彦によほどの統制力が要求されたであろうことは想像に難くない。

 因みにこのテーマを打ち出した直後、幾原邦彦は劇場版『』のためにTV版の現場から完全に脱落、SDの統制を失い、かつ厄介なシチュエーションだけは後に残されるという環境下でのその後のTV版『』の低迷ぶりは目を覆わんばかりのものであった。もっとも、このシチュエーションは「ブラックムーン編」の3話目にして既に持て余されていたきらいもあり、このような事情がなかったとしてもこのテーマがTVでまっとうされていたかどうか、いささか疑問ではないかというのが僕の個人的意見ではある。


 TV版『』の顛末についてちょっと触れるならば、衛がうさぎをふったのはキング・エンディミオン(未来の衛自身)が二人を試すために送ってよこした悪夢に振り回されていたため、ということにされており、結局未来からの因縁に支配されていたという結果に終わった。ブラックムーンとのラストバトルでもうさぎたちは「この美しい地球(笑)」や「そこに生きる人々(笑)」を守るなどという大義名分を振りかざして戦っていた。これらはいずれも『無印』が構築したアニメ版『セーラームーン』の持ち味をまったく生かすことができていなかったということになるかと思う。

 因みに幾原邦彦はTV版『』で果たせなくなった件のテーマを劇場版『』で展開し、こちらに関しては一応の成功を収めている。そこでは衛や他の四人はうさぎに出会うまで各人各様の孤独を抱えており、うさぎという存在は、彼らがその孤独ゆえに築いてしまった心の壁を切り崩し孤独を癒すもの、として位置付けられていた。「『セーラームーン』でやりたいことはこれでやり尽くした」と語る幾原邦彦にとっての最大のテーマはやはり、前世からの因縁はきっかけに過ぎず、現在を生きる人格どうしの関係にこそ意味がある、というものであったと解釈できるかと思う。

 アニメと原作とのせめぎ合い、という観点では、『無印』ではここまで述べてきたようなアニメ独自の解釈により原作にはみられないヴィジョンを示すことに成功したが、『』ではSDの統制を失ったまま中途半端に原作の設定だけをなぞったために設定、ストーリーの一貫性という点でも、作品全体の完成度の点でも原作には及ばず、かつアニメ独自の視点も打ち出せないという結果に終わった。……とみるのが妥当だと考える。

「あきらめろ。この聖杯は、愛情も、憎しみも、喜びも、怒りも、悲しみも、すべてを最高レベルまで高めたピュアな心の純結晶体。
 ふふふ……。聖杯を取り込んだファラオ90に勝つにはそれを越えるピュアな心の結晶を作るしかない。お前たちに勝ち目はないのだ!」

 『セーラームーンS』においては、佐藤順一、幾原邦彦の二人が完全に現場復帰を果たし、冒頭からいきなりのハイテンションでシリーズを引っ張り始めた。その『』は原作の第三部「デスバスターズ編」の基本的な設定は踏まえつつも、「ピュアな心」を一つのキーワードに、アニメの独自性をかなり強力に主張するものであった。

 敵(デスバスターズ)の目的は人間のピュアな心の中に封印された三つの「タリスマン」を集めることにある。
 同じく「タリスマン」を目的とする第三勢力として二人の新たなセーラー戦士(ウラヌス、ネプチューン)が登場する。
 三つの「タリスマン」が集まるとき強大な力を秘めた「聖杯」が出現し、それを扱うものは世界の命運を左右する。

 これに対して原作での設定では、デスバスターズは人間の魂(聖体)をエネルギー源として求める異次元生命体であり、「タリスマン」は彼らにとっては未知のものである。ウラヌス、ネプチューンは初めから「タリスマン」を持っている。そして「タリスマン」と「聖杯」に直接の因果関係はない。

 「聖杯」がセーラームーンをスーパー化する強化アイテムであるという点は共通しているが、原作における「聖杯」は、単にセーラームーンが他のセーラー戦士たちの力を一つに束ねるための触媒としての役割しか持たず、三つのタリスマンが呼び出すものは「聖杯」ではなく「滅びの戦士・セーラーサターン」である。


 このアニメ独自の設定は『』の前半においては非常に有効に機能していた。『』ではすべての設定を背負ったちびうさを話のメインに据えざるを得なかったため話が日常から遊離する傾向にあったが、敵のターゲットが人間のピュアな心〜不特定の人間個人ということであればストーリーを日常レベルで展開することが容易にできる。また、あるアイテムをめぐって敵味方不明の第三勢力が存在し三つ巴状態の緊張感が生まれる、というのは『無印』の虹水晶編を彷彿とさせる。総じて、『』の前半には『無印』が持っていたさまざまな魅力を(ギャグもシリアスも含めて)まとめて濃縮したかのような印象があった。

 その中で特筆すべきはやはりウラヌス〜天王はるか、ネプチューン〜海王みちるの存在である。二人のキャラクターそのものの魅力もさることながら、この二人は前世の記憶の命じるところに従い、現世での普通の高校生としての生活や夢を犠牲にして「世界」を救うという大義名分のもとに悲愴感に満ちた戦いを行なう。これは要するにうさぎたちの行動原理に対するアンチテーゼである。はるかとみちるの存在は、うさぎたちとはまったく対極的な存在を配置することで、『無印』で提示された「日常」というテーマにもう一度光を当てることを意図したものではないかと考えられる。

 そのテーマは物語のキーである土萌ほたる〜セーラーサターンの位置付けにもまた反映されている。

 パパももういない もう わたしはなにもない なのに どうしてまだわたしに力がのこっているの?
 わたしはこんなに強かったかしら
──わたしの奥にもうひとりのもっと大きな「わたし」を感じる
 そのわたしが「命をかけてみんなを助けよ」といっているの
(原作より)

「あたしには……、あたしには……、
大切な人たちがいるわ!」
(アニメより)

 ほたるにとりついていたデスバスターズ・ミストレス9がちびうさの魂を奪い、異次元生命体ファラオ90を異界から召喚する、という展開は原作、アニメにほぼ共通している。引用したモノローグはいずれも魂だけの存在となったほたるがミストレス9の呪縛を破りちびうさの魂を救い出すというシークエンスであるが、こうして台詞を対照してみるとほたるの行動を支配するものが見事なほど正反対であることがわかる。

 原作においてはほたるの行動を支えるのはほたるの中に眠るセーラーサターンの力である。つまるところ、原作ではうさぎたちも、はるかたちも、ほたるも、登場人物すべての行動が前世からの因縁に基づいているのである。

 対してアニメでは、ほたるの行動は父親である土萌教授とちびうさへの想いに支えられたものであり、ほたるにとっての「日常」に根ざしたもの、と解釈できる。そして、これは重要ではないかと思うのだが、前世の因縁の象徴ともいうべき「銀水晶」は最後まで一切話に絡んではこない。

 『』のSDは幾原邦彦ではあるが、基本設定を提示する第一話とクライマックスの演出を佐藤順一が行なっていることから、『』全体はむしろ佐藤順一の作品と考えていいのではないかと思う。そう考えた場合、物語の基本設定である「銀水晶」の放棄にまでいきついてしまった以上、佐藤順一にとってももはや『セーラームーン』で表現できることはすべてやり尽くしてしまったのだ、と解釈できるのではなかろうか。

 とはいえ、『』もまた後半においては原作にすり寄るために駆け足になり、前半で構築したアニメ独自の世界をまっとうし切れなかった。完成度や設定の整合性の点では原作第三部にやや及ばないという面もあるかとは思う。その点がクリアされてさえいれば、『無印』を凌駕する作品になっていたと思えるだけに、残念といえば残念ではある。


『お楽しみはこれからだッ!!・電脳総集編』に戻る。
「糸納豆ホームページ」に戻る。



 この件については、『ママレード・ボーイ』のアニメ化の際にアニメ雑誌で「アニメでトレンディ・ドラマをやろうと思った」とのプロデューサーの談話があった。…という指摘をフジワラヒロタツ氏よりいただいた。なるほど(笑)。ほんとにそのものだったわけね(笑)。  本文に戻る。