お楽しみはこれからだッ!! YOU AIN'T READ NOTHIN' YET !!
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第27回 “薬味とデザート” | |
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掲載誌 | 糸納豆EXPRESS Vol.11. No.2.(通巻第26号) |
編集/発行 | たこいきおし/蛸井潔 |
発行日 | 1993/12/24 |
いやー。糸納豆の前号には“お楽しみ〜”を予定してたんだけど、超過密スケジュールの関係であっさり落ちてしまった(笑)。今年はなんだかとみに忙しい(笑)。
ま、気をとり直して連載第27回。“薬味とデザート”。
……だけどね、世良(せら)くん。
もしできるなら、私、世良くんとずっと日本にいたかったな。
同じ学校にはいり同じ街に住んで同じ友だちと遊びたかった。
大好きな海を見ながらも
私は、そんなふうに思うんだよ───
台詞、ではなくてモノローグですが、LaLa1993年10・11月号掲載の安孫子三和『みかん・絵日記 特別編・君といつまでも』より。
安孫子三和『みかん・絵日記』はアニメになってTVの電波に乗ってしまったので、近頃のLaLaのマンガの中では最も知名度が高いんではないかと思う。物語は、ひょんなことから人語を解する猫、みかんを拾ってしまった小学生草凪吐夢(とむ)の身の回りに起こる出来事、というスタイルで進行する。
連載の初期においては、みかんという猫は、単に人間社会にまぎれ込んだ珍客、といった存在であったが、連載が続くにつれて、人間社会のコミュニティと対比されるものとして、人間に飼われる動物(ペット)たち(猫・犬)のコミュニティ、といったものが浮上してくる。みかんがその双方の“言語”を解することによって、本来断絶している筈の両者の間にパイプが通じてしまう、といった構図が生まれてきたのである。
ここで思い出したのが安孫子三和の出世作となった『真夜中をすぎても』のシリーズである。こちらはというと、ひょんなことから人間世界に呼び出されてしまった魔界の王子が人間の子供たちと友だちになって…、という設定なのだが、このシリーズで繰り返し描かれたモチーフは“異なる生物の間の友情”というものであった。
魔界人は魔法が使えるだけでなく、寿命が三百歳程度であり、生物のランクが人間よりやや上の存在、として描かれている。今は友だちとして過ごしているけど、人間の子供たちの方がいつしか自分たちより先に年老いて死んでいかざるを得ない。そんな両者の間に友情は成立するのか?
『真夜中〜』のシリーズにおいては、“同じ時間を共有”することができれば友情は成立するのだ、という主張がなされる。それと同じ主張が実は『みかん〜』にも散見されるのだが、こちらでは『真夜中〜』における“魔界人-人間”の関係は“人間-猫”という関係に置き換わっている。
おそらくこれは話が逆なのであって、『真夜中〜』のモチーフの方こそが、動物(ペット)を飼ったことのある人間の実感する他の動物との寿命の違い、からきているものと思われる。それが『みかん〜』においては、はっきり直接的に描写されてしまった、と(笑)。
今回とりあげた番外編は、吐夢の親友である楠木世良のちょっと悲しい初恋物語。世良には幼稚園時代とても仲のよかった翠葉(みどりは)という女の子がいた。再会した二人はお互いにあの頃から想い合っていた、ということを確認するのだけれど、翠葉は母親の再婚相手の母国オーストラリアに永住することになっていた。前頁のモノローグはオーストラリアから翠葉が世良に送った手紙である。ここでは“同じ時間を共有”できないという現実がもの哀しさを醸し出している。これは先に指摘したテーマのヴァリエーションとして捉えることもできなくはない、と思う。
自分ちさえ良けりゃそれで良い鬼畜のわしらであった。
ありがとう。ゆずにトイレを提供してくださってるおうちの方々。
発覚したら菓子折持ってお礼に行きます。
こちらは須藤真澄の愛描溺愛エッセイコミック(笑)『ゆず』より。須藤真澄の愛描ゆずは部屋の中の砂箱をトイレに使うことはついに覚えてくれなかったけど、部屋の外で用を足してくれるようになり(笑)、部屋が臭くならなくなってひと安心(笑)。
この『ゆず』においても、“猫の寿命の問題”は必然的に触れられていて、“今こうしていっしょに暮らしていられればいい”という結論に落ち着くあたり、これはペットを飼う人たちに共通の認識なのかもしてないな、と思う(笑)。但し、『ゆず』にはペットを飼う人間のエゴや、猫の野性動物としての側面なんかも描かれ、動物を愛玩するという行為の偽善性もちらちらと見えるようになっている。その辺、実に正直というか清濁合わせ呑むというか、好感の持てるところである(笑)。
『みかん〜』はアニメの放映に合わせて第2部が始まったのだけど、この手のシリーズものにありがちな“サザエさん現象”に陥り主人公が小学5年生から成長しなくなってしまった(笑)。そのため、“寿命の問題”の切実性は失われてしまい、なおかつ猫たちの行動が徹底的に擬人化されているために、“ペットを飼う”という行為の都合のいい部分だけが強調されてしまう。こうなると畑正憲と五十歩百歩かな、と、思ってしまう今日この頃である。
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