時刻表を眺めつつ、宿で寝ながら思った。 「道成寺へ行くには、幾つかのルートが考えられる。 もっとも、蟻の熊野詣と言われた旧熊野街道は、既に国道にとって変わられ、車に頼らなければならない。」 私は、大阪天王寺駅から帰省客で満員の『急行きのくに51号』に乗り込んだ。 もうすぐお盆だった。 30年目を迎えた終戦記念日、青く澄んだ空に豊かな雲が浮び、穏やかな夏の昼下がり。 天王寺から和歌山まで、私を乗せた列車はわずかばかりの市街地を早や通り越し、 広い田園地帯を貫き進んでゆく。 この葛城山脈で分けられた二つの広大な平野、近畿平野と和歌山平野は、 太古から文化の温床であり、歴代首都のもっとも身近なそして大切な穀倉地であり、軍団養成地でもあった。 また、そこに積み重ねられて来た文化は、いまもなを一つの精神となって近畿一帯の風土とともに息づきただよい、 日本人の心の故郷とも成って、訪れる現代の傷つき疲れた日本人を、その優しい胸へ抱き込んで癒してくれる。 車窓一杯に広がる波うつ緑の海は、その上を横ぎる騒々しい船を無視して、 そんな不思議なイメージを与え続けてくれるのであった。 小半刻ほど、列車にゆられ人ゴミにつかれた私は、この満員列車からぬけ出したくて和歌山で一服した。 そして、和歌山から鈍行に乗り込んだ私をまず驚かしたのは、前は海、後ろは山という典型的日本風土だった。 そこには一握りの平野も無い。 そして、わずかばかりの土地に、海南・冷水浦などのコンビナート群がある。それは、文明の侵攻の爪跡であった。 また、今もなお、文明の攻撃を寄せつけない熊野の姿であった。 熊野とは不可思議な名である。 古来より、曲り角の多い道をクマノと言った。それは、人跡未踏の辺境へと続く道であった。 しかし、人跡未踏の地がクマノであったのだろうか。 大国主命が「八十隈手」と云った所もまた、辺境の地の名であり、総称であると言われている。 熊野の地名は、神武天皇東征の折、この地に上陸した際に、大きな熊が現われたという逸話があるが、 実際には隈手・隈野・熊野の意であったと考えられる。 熊野の言葉の響には、不確かさ、恐怖などが含まれている。 そしてまた、万葉の歌の中には、曲りくねった坂をすみ坂(隈坂)などと言うことがある。 熊野三社の一つ『フスミ』神とは、その坂の神であり塞の神の根元、つまり、黄泉比良坂の神であり、 それは隈野・隈魔野の神であったと思われる。 道成寺の蛇と熊野を結びつけるものは、河川を蛇と見ると一般に言われている、出雲神話系の考え方と、 熊やなぎなどと使われているクマの本義が、蛇をも表わす言葉でなかったかという推測による。 しかし、熊野への心の高ぶりも一切おかまいなく、列車は更に南下して行く。 一刻、一刻、そしてトンネルを抜ける度に明るい風が心持ちよく、都市の雑駁な世界から、 全く別な世界へと迷い込んだような錯覚を覚える。 御坊駅に着くと、私はバスで道成寺に行くことにした。 御坊から更に列車に乗って道成寺に行く事も出来る。 しかし私はバスの窓から日高川を身近に眺めたかった。 日高川、この名前も面白い。 アイヌの言葉から生まれたと言われている地名に、このヒタカという名が多いのも事実であり、 そして関東以北に散乱するヒタカ・ヒタ・ヒカ・ヒ・イ・の名が、 紀州のしかも河の名に残っていることが大きな謎である。 (ヒのミサキ、ヒノ川、夫ナガスネヒコを殺害された未亡人。これが残されたメッセージ。) そしてまた、日高川の存在によって、道成寺説話の劇的展開が決定づけられている。 車窓に映る日高川は、河岸工事によって土手を従え、満々と水を湛え、ゆったりとした美しい川に変身している。 私は、変身していると考えたい……。しかし、私には日高川にかまっている余裕はなかった。 道成寺には昼前に着いた。 まだ早いので、昼食は境内で済まそうと思っていたが、あたりにはつい腹が鳴りそうなレストランやスナック、 そしてドライブイン『安珍』などがあって、いささか日本人の商魂のたくましさに驚かされた。 まったく、ほこりっぽい殺伐とした道路に立ちつくして、これが日本の独特の観光事業かと 肩を落さずにはいられなかったのである。 しかし、そのささやかな都会の泡は、まるで映画のオープンセットのように緑の中に現われているにすぎなかった。 道成寺は、東に日高川が流れ、北から西にかけては山々が囲み、南はそのまま海に通ずる田圃に囲まれた、 山ふところ近くの小高い一見円墳状の丘の上にある。 道成寺の境内に入るためには、南からオープンセットの街を通り抜け、彼の有名な六十二段の石段を登って行かなくてはならない。 石段の左右には芝生を植えられた土手があり、その向うには鬱蒼とした雑木林が静かな暗がりを作っている。 |
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もし木々に話すことが出来たら、彼らは何と言って道成寺の歴史を語ってくれるだろうか。 しかし、彼らは賢こく沈黙を守り、私の妄想は果しなく身勝手に飛びまわる。 丘の上は石垣がめぐらされ平坦に造成してあり、のべ四千五百坪もの敷地を有している。 そして本堂は二百二十余坪の広さを占めている。 石段を上ってすぐ、朱塗の仁王門をくぐる。 まだ新しく思われるのもあたり前で、文明13年に建立されてから 昭和36年に解体修理が行なわれたとの事である。 仁王門をぬけるとすぐ、50メートル程先に本堂がある。 本堂へ通じる石畳みにそって左手には蓮花の水飲み場があり、地蔵菩薩像があり、 右手には、鐘巻跡の碑・安珍の碑がある。 |
![]() 境内図 |
右手奥には三重の塔がある。宝暦13年の建立といい、その組み込まれた飾りには、 (尾垂木とでも云うのか、肘木よりつきでた飾りである。象の頭との説もある。) 一見蛇の頭のようなものが有る。下顎から牙がはえ、頭に角のない事が確認できた。 (『道成寺絵巻』によれば、一本角の大蛇であったはずである。) 江戸時代の人も酒落たもので、そんな飾りをわざわざつけたものだろう。 三重の塔の南には、再建鐘楼跡があり、 その隣に中村富十郎(『京鹿子娘道成寺』の創始者)の石碑が立っている。 |
鐘巻跡の碑 ![]() 三重の塔 |
本堂へは、今にも音をたてて咲きそうな花を湛えた蓮池にかかる小さな石橋を渡って入る。 まるで鎌倉の鶴岡八幡宮の大鼓橋のようである。 |
![]() 鐘楼跡 ![]() 再興鐘楼跡の高札 ![]() 富十郎碑 |
本堂の入口に下るわに口を眺めつつ、薄暗い冷やりした中へ入ると、 古びた二抱えも有りそうな柱がある。 それはゆるやかなエンタシスを持って、明らかに奈良朝時代の香りを留めている。 この本堂は、もとあった建物の資材を使って天授年間に再建されたものと言う。 するとこの柱もまた、何かを見て来たのだろうか。 一度も火災に会ったことが無いという和尚の話を証明するように 広い本堂を狭く感じさせるほど多くの仏像がひしめいている。 本尊は二体の千手観音菩薩像、南面本尊と北面秘仏と伝えられている。 そのどちらの像の前にも、霊鏡と御幣が飾られている。 御幣はまだしも霊鏡は、神道にとっては御神体のはずであり、 この場合本尊が四体坐すことになるのだろう。 そして南面するのが常道の本尊を、北面の本尊を秘仏として大切にしていることが、 なんとしても不可思議なことである。 |
![]() 本堂 |
インドの神には、ヴィシュヌやシバ、カーリー、インドラなどなど、千手千顔・千眼が多い。 目代師から戴いたインドの水神の写真「ナーガ」も千手千眼である。 道成寺では本尊の前で、神前のように手を打って拝むのが習いであると言う。 これは、和尚の話では、神仏習合以来の伝統というが、 もし此の風習が道成寺建立以前からの形に基づいているとしたら、 そして南北両面に向くニ体の本尊が、何かを(飛騨の両面宿禰と同義としたら?) 永々と表明し続けているとしたら。 更に、出土した道成寺の古瓦が備えているあの縄文土器に通じるようなオドロオドロしたものが、 全て道成寺の過去を無言のうちに証言しているのだとしたら……。 私の胸の中で妄想が激しく渦巻いて行く。 妙に疲れた気分で本堂を出ると、八月の陽ざしに一瞬目がくらむ。 昼食がまだだったことを思い出し、腹の虫に追いたてられて食堂へ飛ぴこんだ。 精進料理のような弁当を食べながら、ふとこの寺には墓も檀家も無いことを想い出した。 いったいどうやってこの寺を維持して来たのだろうか。 広い宴会場のような食堂で一人冷たい麦茶を飲み続けながら、 沸き続ける疑問をどうすることも出来なかった。 疑問を抱えたまま食堂を出て、本堂の西へまわると十王堂・人相桜・白竜神社があった。 そして、本堂の西北西にあたる所に、うらぶれた納屋のようなたたずまいで、 左から、「住吉大神宮」、「弁財天」、「天満宮」の額を掲げた古びた社があった。 この忘れさられたような三社様に、何か意味づけがなされていたのだろうか。 本堂の北西には、「弘化四年、再興本尊不動明王」の碑を掲げた護摩堂がある。 また、本堂の北側へまわると、「北面秘仏本尊・文武天皇の勅を奏じ、義淵僧正謹刻、 一丈二尺千手観音菩薩像・皇城鎮護の勅旨に依り、 藤原宮に向いて大安す」という碑文がかかっている。 この一文を素直に信じることは出来ないが、とにかく違うとも断定出来す、 史料の不詳なことを嘆かずにはいられない。 ゆっくりと本堂を中心に時計回りに東へまわって、書院などを見てまわり、 道成寺側のあまりに都合のよい建立譚のでっちあげに、 再び腹の虫を鳴かせつつ石段を下り、西へ500メートル程歩いて見た。 和尚の言っていた蛇塚を見ようと思った。 |
![]() 南向き千手観音 ![]() 水神 インド ナーガ神 |
ほどなく、たんぼのど真中に、石で囲まれた蛇塚を見つけた。 石碑は、ななめにかしいだ自然石へそのまま「蛇塚」と彫りつけたもので、 これが清姫の入水自殺の跡であり、墓碑であると言う。 蛇足ながら……このあたりは昔海であったと言う。 この辺の海退は何時頃だったのだろうか。 私は蛇塚を拝んで、熊野大辺路を求めて、そそくさと紀州南下の途につくことにした。 道成寺は、なをいっそう謎を深め、私は更に混乱していった。 |
![]() 蛇塚 |
【道成寺攷 参考資料一覧】 |
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