戦争を今、ここから考える

良く生きる平塚市民の足がかりに−旧横浜ゴム平塚製造所記念館


小林



 朝日新聞2004年8月10日に、大江健三郎氏が平和を語りつぐ重要性を「伝える言葉、折り鶴にたくされた祈り」に書かれています。広島の原爆の子の像にささげられる十四万を超える折り鶴が燃やされた事件を題材に、「ヴェイユは、なにより注意力を育てるのが学問の基本で、それは祈る力をきたえることでもある、といいました。まず、じっと見つめることだ、とも。」と紹介し、生きている少女が注意深く鶴を折ることで、死んだ少女の折り鶴にたくした願いをなぞり、想像力を働かせることが祈りとなると具体例を示し、「他人の痛みを、自分の肉体のこととして(当然に、自分の心のこととしても)感じることができるのは、ただ想像力によってのみだ、と教育について書いた『エミール』で、ジャン=ジャックルソーはいっています。」「もうひとりの哲学者の名を上げるなら、広島の原爆に始まり核兵器によって世界が滅びうるという、今日の人類の実存ついて根本的に考えたマーティン・ハイデッガーは、人間が倫理的になる(良く生きることを考えるようになる)のは、『死すべき者であること』をさとる時だ、といいました。」と著名な思想を述べ、鶴を折るとか川面を流れる灯籠を追う、死について考えるなどから、想像力が培われ良く生きることにつながると提案されています。
 戦争を伝える事、考える事は、重要ですが難しい問題です。先人の体験や思いをたどり平和や生きる事を考える大江氏の提案を、平塚市として検討してはどうでしょう。
 平塚市は、戦争中兵器産業のまちでした。市の中心部には、旧第二海軍火薬廠及び相模海軍工廠化学実験部(無煙火薬製造他、敷地面積124,000u、大原、追分、西八幡、浅間町)、日本国際航空工業(航空機製造、敷地面積約145,200u、八幡)、旧第二海軍航空廠(航空機用機銃やその部品他、188,399u、平塚)、旧横須賀海軍工廠平塚分工場(鋳造、鍛造、圧延、プレス、敷地面積不明、須賀)他、多数の工場があった事が平塚市博物館により調査されています。特に高砂香料、美術館、警察署の一角は海軍技術研究所後に相模海軍工廠化学実験部として、毒ガスの開発、製造、研究を行っていました。その場所で、2003年4月3日国土交通省関東地方整備局横浜営繕事務所による合同庁舎建設工事中、戦争中の毒ガス瓶が発見され作業員が頭痛等を訴える事故が起きました。この問題の調査を進めると、平塚が安全と言えない事が分かりました。環境省平成15年の旧軍毒ガス弾等のフォローアップ調査では、「A毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高い」に分類されました。茨城県神栖町や中国で続く毒ガス事故が毒ガスの怖さを物語っていますが、平塚市も例外ではないのです。
 7月30日、中国毒ガス被害者の映画「にがい涙の大地から(海南友子監督)」を見ました。悲惨でした。父親が死ぬ、生活が破壊され困窮する、自殺未遂、次々と病気になる、咳が止まらなくて眠れない、身体が自由に動かせない。今も苦しみ続けているのです。それなのに日本政府は、被害者救済を拒みました。その毒ガスを造っていたのが、陸軍は広島県大久野島であり、海軍は平塚・寒川なのです。
 8月11日、周囲4.3kmの瀬戸内海の小さな島、大久野島を訪ねました。毒ガス資料館には、島の歴史の写真、毒ガス製造道具、粗末な防毒服、マスクの展示、証言や資料がビデオ上映されていました。国際法違反の毒ガスの製造は秘密に進められ、大久野島は地図から消され、働いている人も毒ガスの製造を知りませんでした。健康被害者が、戦後その原因が毒ガスであることを突き止め国に補償を求め、やがて市民の手で毒ガス資料をよみがえらせたのです。私は、当時の建物や砲弾跡などを見学し史実が現実であったことを実感し、平塚に資料館のないことを残念に思いました。
 平塚は大規模な空襲を受けたまちです。そして毒ガスの製造という加害の面も併せ持つまちです。日本人は、ドイツ・アウシュビッツの毒ガスによるユダヤ人の大量虐殺は知っていますが、日本の造った毒ガスが、中国の人を9万人以上死傷させた事実を知りません。こうしたことから、東洋一と言われていた平塚は、歴史的に重大な責任を秘めた地なのです。
 平塚市では現在、旧横浜ゴム平塚製造所記念館(旧水交社)の移築利用を検討中です。戦争中海軍将校たちが集った建物です。私の提案は、戦争中の平塚と現在を比較したまちのジオラマ、製造した毒ガス、火薬、砲弾、戦争の様子、怪我をしたり亡くなった方の写真、現在の毒ガス被害者の様子などを記念館に展示することです。そうすると嫌でも市民は戦争に目を向け平和の尊さに気付くでしょう。また記念館をまちのシンボルにとの意見もありますが、「兵器廃絶を世界に情報発信する平和産業のまち・平塚」にしたらと思います。
 一人一人が意思を持たないと平和は創れません。過去と現在がつながっている事実を知り、戦争のむごさを共有する=自分のものにすることがすなわち戦争はいけないんだというエネルギーになり、それが地域社会の合意になれば、平塚は世界に誇れるまちになると私は考えます。だから記念館は、平和について考える足がかりとしたいものです。今を生きる大人の一人として、子供たちに平和と生物の多様性をプレゼントしたいと願っています。


 北(プロデューサー)さんにお話を伺いました。ありがとうございました。
 参考資料:
  「日本の化学戦」 主編=紀学仁、大月書店
  「市民が探る平塚空襲 証言編」 平塚の空襲と戦災を記録する会編 平塚市博物館
  ガイドブック18平塚の戦争遺跡 平塚市博物館 
  海南友子HP

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