終らない戦争(隠匿された毒ガス兵器)  

―相模海軍工廠・寒川と平塚にあった 秘密毒ガス工場 そのU―


北 (プロデューサー)




 相模海軍工廠が海軍の秘密の毒ガス工場であり、その跡地の一部から大量の毒ガスが発見され、負傷者が多数出たことは前号でふれました。寒川で802本、平塚で425本(3月31日まで)
 平塚にあった第二海軍火薬廠(当時東洋一と云われた規模)の相模川寄りの一角に海軍技術研究所が築地から移転し(昭和5年)毒ガスの研究・開発・製造が行われ、規模拡大の為、相模川対岸の寒川町一の宮に大規模な毒ガス製造工場を作り(昭和18年)、名称を相模海軍工廠とし、平塚の海軍技術研究所は化学実験部となり、毒ガスはもとより、生物兵器全般の研究・開発にあたりました。更に錦出張所(福島県小名浜)、多摩出張所(八王子市川口町)、上田出張所(長野県上田)を開設疎開工場としました。

―毒ガス工場の恐ろしさ―


 「顔は黒く、目は赤く、肺はただれ、集会の折、駆け足で来る第2工場(イペリット)の人達は咳が止まらず、血を吐いていた」(日川中学動員学徒証言)
 「昭和20年5月頃、30名程の朝鮮少年工(16才〜20才前)が宮前寮の一室で、ガスにやられ死んだ様になっていた。」(湘南中学学徒証言)
 国家総動員法(昭和13年)国民徴用令(15年)により毒ガス工場には昭和16年から20年5月まで合計21回の徴用工が配属され、2000名を超える労働者が強制的に働かされました。更に学徒動員、女子挺身隊、そして朝鮮から強制連行(徴用工と称している)した朝鮮人。
 まさか自分が毒ガス工場に連れてこられるなど誰一人思ってもいませんでした。更に軍機密として「生涯口にするな」と…。
 動員学徒は大学生もいましたが、主に静岡、神奈川、山梨の中学生−湘南中学(藤沢)、相洋中学(小田原)、日川中学(山梨)、伊東高女(伊東)、豆陽中学(下田)、平塚高女(平塚)等でした。
 15才〜16才の少年・少女も含む総数3000名以上を「海軍魂・精神棒」と書いた丸太で殴り、或いは「対抗ビンタ」等で威嚇し毒ガス生産にあたらせたのです。60kgイペリット爆弾を中心に1号特薬(催涙)、2号特薬(嘔吐)、3号特薬甲(びらん)、イペリット、同乙(ルイサイト)、4号特薬(青酸)等が作られました。
 これらの化学兵器・毒ガス兵器はどこに送られ、敗戦時にはどこに隠匿されたのでしょうか。その多くが中国大陸へ、そして南方へ、対ソ戦用に北方に配備、最後には本土決戦用として(決号作戦)大量の毒ガス兵器が配備されました。陸軍毒ガス工場の大久野島(広島)には現在も地下壕に大量の毒ガスが埋蔵されています。北海道美幌基地の地下壕にある60kgイペリット・ルイサイト混合爆弾(不凍)、福岡県苅田港周辺海域に放置されたまま538発にのぼる爆弾、寒川町岡田にある特殊地下壕に隠匿された各種毒ガスの原材料、毒ガス兵器、隠匿された陸・海軍の化学兵器、毒ガス兵器は今日に於いても、その毒性はおとろえることもなく地下に、地中に、海中等に眠っています。国内にとどまらず、中国をはじめ東南アジア全域に、南洋諸島に及んでいます。

―毒ガス、化学戦、悪魔のネットワーク―


 昭和15年、海軍技研(平塚)に陸軍参謀総長、閑院宮(中国での毒ガス戦を指揮、大陸指令110号)、前年には東久彌が視察に訪れています。毒ガス戦将校養成機関としての陸軍習志野学校に技官を派遣。化学部隊の創設、更に陸軍技研から細菌戦の資料をとり寄せ、研究開発を進めていました。(1号兵器)。昭和17年「決戦兵器考案ニ関スル作戦上ノ要望」を陸・海軍で協議、昭和19年1月「大陸指令1822号、化学戦準備要綱書」に記されている「化学戦ノ準備ノ実施ニ於テハ密ニ現地海軍ト連攜スルモノトス」「秘匿名G作業ト定ム」に見られるように、陸・海軍の化学戦・毒ガス戦は両者の緊密な関係を抜きにしては語れません。
 相模海軍工廠、海軍技術研究所こそ、陸軍の大久野島、科研、登戸研究所と対をなす化学戦の重要なネットワークの一部と位置づけられます。
 日本政府には、陸・海軍の行った秘密の化学戦の全容を明らかにする義務と責任があり、遺棄・隠匿された毒ガスの回収・無害化を国内外にわたって一刻も早く進めなければならない。何故ならば毒ガス兵器は生きており、いつ住民に襲いかかるかわからないからです。

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