いのちの本質を問いかける no10

長寿と飽食文明・狭間での生命


石井



 中郡土沢村土屋で、夫の両親と一緒の生活。金銭で物が買えない時期、米麦の不足は深刻。その頃、両親が手がけた農作業に加わっての三ちゃん農業。家事、育児、目まぐるしく暮れる日日だが、緑と清水に囲まれて疲れ知らず。文明、利便、お金余りの暮らしからは程遠いが、軒先から続く水田、目前に小川、借景の広葉樹林薪山に移ろう四季を堪能。そこ、ここから吹く風に、当時の冷房用具、団扇を使うことも稀。…・・一段と厚く葺かれた麦藁屋根の家で。
 子供の頃からの思い、掘抜き湧水での暮らしに、至福の念。噴出し続ける清水。少しでも無駄に流し去らせたくないと、隣家、向かいの家に送水出来てほのぼの。
 自然薯、きのこ、芹、たにし等々、自然からの贈り物を連れ立って取りに。互いが分け合い、薬用に、栄養源に、食卓にと、色香風味を楽しみつ、かけひきのないない人達皆に庇われて子育て。育つ子等の環境に感謝。様々な命に、生きる様に感嘆。愛でつ、驚きつ。
 子等の遊び場は外。なだらかな地形に、上下同年令が一緒に遊び、野良仕事する人達の目も加わって歩き始めて外で遊べるようになれば、子供のことは他力本願で、自分の仕事に没頭。体は忙しいが心は長閑やか。

 昭和30年(1955年) 町村合併で平塚市民に。その年代後半頃から、山砂利、土を運び出すダンプが走行。幅3mの土砂道を連らなり通る。車体が隠れる程に土埃を巻き上げ、道を凸凹にして車体を揺らせて、それでも緩まぬスピードに歩行者の私は慌て戸惑う。小学児童、幼稚園児の通い道。三三五五、語らいつ笑い合いつ、蓮華草や稲穂を賞でつ、忙しい生活の中での社交の場のよう。横に並んでゆっくり歩いたこの道が、経済成長優先、飽食社会に向かう馳せり道のよう。道幅と変わらぬ程の幅のダンプが容赦なく走り抜ける。この事態に、素朴や実直では取り残されることを体で感じ、要領上手で、自己中心型気風が横行しないことを願った。特にこの渦中に育ち生きる子供等年齢層にと。

 昭和40年(1965年) この道の舗装工事始まり、姑が野菜を作っていた道路沿際の地目(田)の所が本舗装され、本来の道に組み込まれた形になり、今まで3mだった道幅が6m程の幅になっている。
 草が出ているのが嫌いな姑は、ダンプが通り始めても菜畑として使い野菜売り場がなかった当時にあっては、不可欠とも言える大切な土地でした。その土地が、従来の道と繋がった形での舗装を見た姑は息を飲んだ。…・・「大正年間、国が推す農地取得奨励制度に則って、農行銀行から全額を借り入れて、苦心苦労して得たこの土地が何故今。知らぬ間にと」棒立ちす。その頃のことを姑から聞いていた私は、「エッ、何」実直に生きる市民にと。(この地、税金払っているのに)と。実直者は愚者に至れるいう事なのかとの挫折感を覚えた。そして届いた工事が終わったその報に、道作りや整備の視点はどこに向いているのだろうかと思った。    
 手近な森林を削り、遠浅の海辺を埋め立てつ、自然破壊して造られ広げられてゆく道に、風光明媚、山紫水明の国、豊かな美水は外国にも運び出されているが他の資源は乏しい国と教えられた私は、この国の特典を、目先の経済成長に向けて壊し、突き進む施策に、この狭い国、どうなってしまうのかなと懸念中、「狭い日本、こんなに急いでどこへ行く」の標語に出会って同感者もいるとホッとしたのだが、進む経済成長優先政策。
 
 舗装後の道を歩いた。ダンプの休み日。「前は色んな虫がいて、バッタが跳ねると怖いと思う程いたのに何にも居ないね。でも掴えっこして面白かったー。すぐ逃がさないと食いつかれて痛かったけど。皆どうしちゃったの虫達可愛そう」の子供の声に、「ここで生まれ育つお前達、素朴に生きてね。そして実直にもね」と意味を解しきれぬであろう年の子に言う。
 実直に生きてきて一寸挫折感を覚えたけど、やはり実直に生きる方が好きだからと思いつ。死語になっても忘れないでねと思う。丘陵緑地帯農村の価値見失わず、この地形を守る努力をする人に感謝し、その賜を多くの人が享受し、健全な命をと願う。

 長寿国と称され祝福される長寿人生なら、健全な命にあってこそと思う。飽食文明の落とし子で、水や大気が汚れた後にも健全な長寿が与えられるのであろうか。年齢よりも早く衰えた体力体調に多くの人に庇われている私は、命の原点にある水や大気が守られることを願わずにいられないのです。

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