いのちの本質を問いかける no1

土屋地域の里山環境の変化


石井



 昭和40年頃から、私の住む平塚市土屋地域や近辺では、丘陵を切り断った土を、掘り出した山砂や砂利を運ぶダンプが、幅3mの県道を土埃を巻き上げて通る。敷地や田んぼに入りこみ、道幅が広がる。ダンプ1台分幅の道が2台分幅になり、すれ違いができる状態になった時、急転直下、道沿いの地権者には何の話もなく、広げた道幅に合わせて本舗装路とした。昭和28年生まれの長男がのびやかに通った小学校への道が、昭和34年生まれの次女には脅えの道となった。「舗装前は田んぼに下り、よけられたがもう出来なくなっちゃった。道の端っこの端っこで、ダンプ(続く)が行き過ぎるまで立っているんだよ。ビクビクしちゃう。」と言う。舗装で高くなり切り立てられた道路からは、大人の私でさえ飛び下りられない。端に立ち待つのだが、吸い込まれそうな、吹き落とされそうな感じを持つ。迂回しての農道通学になったが、県道無縁にはならない。人は、ダンプ街道と呼ぶ。
 中学通学路は県道無縁になりのびやかさが味わえると思った刹那、平塚市の全住民のゴミが校舎間近に運び込まれた。「今日も、保健室通学しちゃった。暑さと臭いでまいっちゃうの。臭くて窓があけられないの…・・それでも臭うから。」と、手渡した弁当箱は重い。ここでも、薫風に学んだ長男との隔たりの中にいる。「ごめん、力のない親で。」
 数年後の昭和55年、一般廃棄物最終処分場が来るとの声が伝わる。"何故"この平塚市の水源の地に、地下水の宝庫上に。清水を汚すまじと、環境に心置く方々の教導を仰ぎ、支援を得て、即、計画の見直しを願うのだが出来てしまう。昭和59(1984)年4月、ごみ持ち込み開始に至ったが活動は継続した。折しも毎日新聞の〔我が家の'84年〕に投稿した原稿が記載され、励まされ癒されたのでその一文を。


 「何の働きもない私が、お父さんの少ない給料をせっせと使い、ごみ問題に頭をつっこんで外歩きをしていて、悪いみたいね。」「いいじゃないか。信念を持ってやっているんだろ。価値のある使い方だよ。」と主人。うれしくて目頭が熱くなるのを覚える。


 ごみ問題のことで、出かけるつど、私の方向音痴を気づかって地図を抜書きし、駅名を入れ、時間配分を添えて、ときには送りつけてくれる家族。 そこはかとなく感じる思いやりと助けを受けつつ、ごみのことを学びいる日々でした。 これからも、多くの有識者に支えられ、励まされ、ごみで水や大気を汚さない努力をし続けたいと考えています。

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