日常茶飯

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福袋

 文春文庫の今月の新刊、坪内祐三さんの『文庫本福袋』をもうすぐ読み終える。 帯には<中は開けてのお楽しみ>と、このコピーは単行本の帯にもあったと思う。 単行本が出てから三年で文庫に入ったことになる。 待っててよかった。 こう云うのは矢張り文庫で読むのがいい。 五百頁ちかい厚さだが、文庫版だといっこうに構わないし、厚くても読みやすいのだ。

 もとは「週刊文春」連載の<文庫本読書案内>コラムで(いまも連載中だが雑誌はみないので)、 その2000年から2004年分の194冊を収録したら、この厚さになる。 読んだ文庫もあるし、お気に入りも結構ある。 名前だけ知っているのもあれば、知らないのもあるし、興味のないものもある。 それをはじめから、所々を<猫またぎ>しながら気侭(きまま)に読み通ししているのである。 しかも寝転がってネ。

 文庫本のよさはこれである。 丸谷才一さんは、<わたしたち日本人は文庫本のあの版型が大好きだ。 新書本の版型だつて嫌ひぢやないが、文庫本のサイズのほうがもつと気に入つてゐる>、 と決めつけているが、まあ逆らうつもりはない。 これはハヤカワ文庫の『私の選んだ文庫ベスト3』の序文にあるのだが、 趣向は各人が好きな作家のひとりについて、文庫本のベスト3を選ぶと云うもの。 毎日新聞の日曜版に連載されたもので、和田誠さんのイラスト(選者と著者の似顔絵)がいい。 この連載はいまでもつづいているらしい(たぶん文庫版のベスト3ではないと思う)が。

 さて、文庫本はいつ現れたのか。 丸谷さんは(知らないひとのために言うけれど、この人80歳を超えている)先ほどの序文の中で中学の時に岩波文庫に夢中になったと書いている。 で、岩波文庫には岩波書店の創業主人、岩波茂雄の<読書子に奇す-岩波文庫発刊に際して->と云うのが決まって載っている。 <範をかのレクラム文庫にとり>と云う一節である。 これが昭和二年の日付だから、ここからはじまった。 文庫本で創刊の辞を述べるのは他には講談社ぐらいで、これは1971年。 文春文庫はホームページで書いているが1974(昭和49)年に創刊した。

 歴史は浅いのだ。 尤も文庫版は五百年の昔ルネサンス時代のヴェネツィアで生まれている。 これにつては、塩野七生さんの『ローマ人の物語』の序文にあるので興味があれば読んでください。 勿論、文庫版のあの何だかもったいぶった序論である。

 文庫本は、良いものを廉価に長く保存すると云うものだったと思う。 ところが絶版になる。 文芸の老舗の出版社は案外と芥川賞、直木賞の作家を切り捨てるのである。 いまでは野呂邦暢の文庫は講談社だけである。 それでも最近は復刻されたり、別の文庫に現れたりすることがあるのは、 まあ少しは歓迎しているのである。
'07年12月09日

冬が来た

 12月だもの寒いのは当たり前だけど、ようやく冬が来たようだ。 きょうは朝から木枯らしが吹いて寒かった。 夕方は曇り空で、帰宅のバスのなかに、何とか言葉が操れるようになったらしい幼女とその母親が居て、 その幼女が窓を指さしながら繰り返し「いやーあっ!」と云っている。 何だろうと様子を見ていると、どうやら幼女は夕日が無い(みえない)のを憤慨しているらしい。 自然現象に文句を云うとは大胆不敵。

 母親は、そんなこと云ってもしょうがないじゃない、とか何とか云ってたしなめていたが、 親子が眺めていた窓とは東の空だった。 まあ、たしかに西の空の太陽は雲に隠れてみえなかったのは本当である。 あの幼女は芸術家になる資格があるかもな。

 実は冬の心得がまだ出来ていない。 うちに帰ると、うがいはしているが(風邪の予防にはウガイが一番ですよ)。 ただ、身体(からだ)のほうが寒さに慣れていないので身体が戸惑っている。 そのうち慣れるだろう。 あしたの朝はますます寒そうだな。
'07年12月04日

みつけた

 新聞は毎日みているが、雑誌はまず読まない。 テレビのニュースは朝夕の番組ぐらいはみるが、夜のニュース・ショー番組はまったくみない。 それでいて世相に疎いかと云えばそうでもなさそうだから、ニュースとはダブって流されるものなのだろう。 それを情報の氾濫と勘違いしているのかも知れない。 雑誌やニュース・ショー番組は意見や解説があるぶん余計で、事実だけを伝えてくれればいいのである。 尤も、新聞が事実をつまびらかに書くかと云えば出来ない相談で、云えない事もあるだろうが知らない事もあるだろう。 その埋め合わせのつもりか新聞の社説は誰も読まないことを書く。 第一、社説とは何だ。 今どき新聞社の御説を述べるとは何事か、と咎(とが)める者がないのは、読まれていないのである。 オッと前置きが長くなったのでここまで。

 高島俊男さんの著書、『お言葉ですが…』のシリーズについては何度か書いた。 もとは「週刊文春」の連載記事で、たいがい4年後には文春文庫に入るので、それをたのしんで読んでいた。 その連載が去年打ち切りになった。この事は、たぶん以前書いたンじゃないかなァ。 単行本の売れ行きが芳しくないというのが理由である。

 帰りの駅の本屋で、「諸君!」1月号がでている(ひと月先の号を云うのは月刊誌の悪癖)。 そのなかに、高島俊男さんの新連載「退屈老人日記」をみつけた。 お久しゅう。 この人、何かとうるさそうな老人である。 それで読者が去ったのか知らないが、新連載に歓迎である。 内容は新潮社の辞書、『新潮日本語漢字辞典』。

 この辞書は発売前に知っていて興味はあったがそのうち忘れていた。 中身がわからなかったが、高嶋さんによると、こんな辞書らしい。 <英語の辞書は、アルファベットさえわかっていればかならず引ける。 ところが国語辞典は、そのわからないことばが漢字で書いてあって読みがわからないと引けない。 …だから、漢字から引ける日本語の辞書が必要だ、と小生言いつづけてきたわけです> つまり漢和辞典である。

 高校生のころは、漢和辞典はいわゆる<漢文>の意味をしらべるほかに漢字の読み方を調べるものだった (いまでは、パソコンでも出来るのだが)。 これには、高島さん驚いて(ここには省略があるので原文を読んで欲しいが)、 <今の人たちは、漢和辞典とは、論語や孟子に出て来ることばをしらべる辞書、とは思っていないらしいらしいのだ>。 で、この新潮社のは<新しく現れたのではない。従来の漢和辞典がたどってきた趨勢を徹底し、そこにどかっと尻を据えた辞書> ということらしい。
'07年12月03日

鍋料理

 晩飯は豚のキムチ鍋。 出汁(だし)をはった鍋に白菜、豆腐、キムチ、豚のバラ肉を入れて煮立ったところで、 長葱と韮を放り込んでもう一煮立ち。 白菜が充分水を出すと、まだまだ具を足せそうだから、餅の巾着(おでんの種だね)を入れてみた。

 冬の愉しみのひとつは鍋料理で、鍋のいいところは色々あるところである。 牡蠣、鮪、鶏などの単独の具材もあれば、ざっくばらんの寄せ鍋もあり、 シンプルなもので湯豆腐があるのだから、ことかかない。 <小鍋(こなべ)だて>と云うのは池波正太郎の文章で知ったのだが、 たしかに『鬼平犯科帳』、『剣客商売』、『仕掛人・藤枝梅安』では、 実にシンプルな鍋料理が登場するから、酒の肴に真似したものだ。

 と、鍋のことを書いているうちに思い出したのが<もつ鍋>で、90年代の初めに流行(はや)って忽ち廃れたのだが。 なぜあんなに流行ったのか。 知ってる人は覚えがあると思うが、あれは社会現象だった。 で、いま調べてみると1992年(平成4年)のことである。 小林信彦さんの『現代<死語>ノートII』(岩波新書)にある。

 <牛もつを、キャベツ、ニラ、豆腐などと煮込むもつ鍋は、昔からあった。貧乏学生、失業者、 肉体労働者の食べるものと思っていたら、流行とは奇妙で、OLたちの愛好するところとなった>と云うことで 平成不況のせいにしているが、どうだろう。
'07年12月02日

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