では続きを。
最後に残った対立概念「意気」「野暮」とは。
意気とは「粋」であり、「世帯人情に通暁すること」「異性的特殊社会のことに明るいこと」「垢抜していること」である。野暮はその真逆である。世帯人情に通じず、異性的特殊社会に暗く、垢抜けしていない、鄙びたオッサン、即ち野暮は野夫の音転だといわれている。イナカモンなのだ。
ところが、野暮には自負が入ることがある。「わしはそのう、野暮ですから」と菅原文太が言ったら明らかに渋い(有価値的意味のほうで)。
では、意気、野暮は価値判断が相対的な、対他的趣味なのだろうか。
上品、下品を思い出してみよう。これらは「人性的一般性」なる公共圏における、有価値、反価値を表す趣味だ。一般的人間社会における、価値ある存在が上品、なのだ。
先ほどの野暮の有価値的言い回しは、あくまで「人性的一般性」における表現である。そこには異性的特殊性における価値観は含まれない。(この表現を「セクシーだ」などという女性がいたとしても、菅原文太はそういうつもりで言ったのではない)
畢竟、意気-野暮は、異性的特殊性公共圏における、有価値、反価値を絶対的に決められた趣味だったわけである。異性的特殊性公共圏においては、意気ではない、即ち無粋、つまり野暮に正の価値はない。玄人からみれば素人は無粋。うぶな恋も野暮。不器量な女の厚化粧も意気ではない。異性的特殊性公共圏では、それらの価値は認められない。
つまり、意気と野暮は、対自的、そして有価値・反価値を決定でき、異性的特殊性公共圏に属する趣味であったと言えるのである。
で、結局のところ「意気」とはなんなのか。
原書ではその定義をこうまとめている。
『意気』とは「垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」である
つまり、意気は、基本的に媚態なのだが、その媚態は、いろんな過去と未来、社会的環境などにより、諦観が入り混じった、厭世的側面があり、なおかつ、野暮な異性を見下し、つっぱねるような意気地のある気概であり、ああ、まさに、これは私ことSide-Bの、永遠の異性への憧憬であり、本当に日本人でよかったなあと、つくづく思える言葉なのである。
そして媚態とはいえ、あくまで対自的。誰か特定の相手に対する媚態ではなく、不特定多数への媚態。言うなれば逆説的に、「己に対する反媚態」なのかもしれない。つまるところ、媚態が進化し、「理想主義的非現実性を具現化した趣味」なのである。意気な女は、媚態が滲みでている。だがその媚態は張りのある媚態だ。あからさまに近づこうものなら、手痛いしっぺ返しを食らうだろう。そしてアンニュイな目。異性だけでなく同姓からも憧れられるのは歴然。
無論、勿論、当然の当たり前の事実だが、「いき」と同等の意味を持つ言葉を、外国の諸文化圏における外国語として、見つけることは絶対にできない。あったりまえだけど、「いき」って「erotic」じゃないし、「sexy」でも「pretty」でもない。「smart」が近いような気もするが、「smart」には「媚態」「諦」が入っていない。日本の、日本だけの、ユニークな趣味、それが「いき」なのである。私は、この言葉を、いつまでも絶対に忘れてはいけないものであることを信じてやまないのである。はい、今日はこんなところで。眠い。
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