善と悪、そして人類の目的


 自己保存本能を業と、種族保存本能を愛と言い換えることもできる。そして一般的に、人は『自己保存本能のみの発現を悪と感じ、種族保存本能の発現を善と感じる』もののようである。

 私利私欲の追求に余念のない政治家は悪いヤツであり、世のため人のために献身的に働く人は善人なのである。なぜならば、「人類の理想」は「すべての人々が幸福になること」だからだ。それは種族保存本能の行きついた結果であり、そのためになされるあらゆることは「善いこと」とされる。

 では自分の幸福を追求することは「悪いこと」なのかというと、とんでもない。個人の幸福なくして全体の幸福があるわけがないのだから。他人のことを顧みず、自分のことしか考えないのがいけないのであって、自分の幸福を追求することは当然「善いこと」なわけだ。

 こうして考えてくると、「善く生きる」とはどう生きることなのか―という疑間にも答えることができる。つまり「すべての人が幸福になるにはどうしたらいいのか―を考え、実践してゆくこと」がそれなのである。

 そうしてみると法律の原則が『最大多数の最大幸福』にあるというのも多いにうなずけることであろう。

 また最初の疑間「人は何のために生きるのか」の答えも自ら出てくる。つまり、「すべての人の幸福を実現するために」生きるのである。

 昔からよく言われる「世のため人のため」という価値観も経験的にここにたどり着いたものということができるだろう。私にはそんな言葉でも良かったのかも知れない。だが私にはそれがすべての基本になるのだという根拠が必要だったのだ、そして私はその根拠を生物学に求めたわけだ。私はとても懐疑的だったから、唯物論的裏付けがないと信じる気にはなれなかったのだ。


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