いとぐち


 そんな中で私が無条件で首肯できる言葉が二つあった。二つとも太宰治の小説の中で見つけたものだが、それは「汝自らを愛するが如く、汝の隣人を愛せ」というのと、「汝断食するとき、かの偽善者の如く悲しき面持ちをすな」というのであった。

 これらは太宰が言ったのではなく、聖書の中にある言葉であった。私はだいたい宗教というのは嫌いなたちで、どうもうさんくささを感じてしまうほうなのだが、このキリストの言葉は捨てておかれなかった。それで聖書にも目を通してみる必要があるかと思って読み始めてはみたものの、私の求めるようなものはなかなか出て来ないようであったので途中でやめてしまった。

 だがキリスト教はともかくとして、キリストの教えはこの「汐自らを愛するが如く、汝の隣人を愛せ」という言葉に尽きているように思えた。それは直感であったが私はそう確信した。

 ここには二つの真実が含まれている。一つは「人間は自分を最も愛している」ということ、つまり人間は窮極においてエゴイストであるということ。

 もう一つは「その自己愛と同程度か、あるいはそれ以上に他人を愛することが人間の理想である」ということである。

 ここで他人を愛するというのは、単に感情の上だけのことではない。その人にとっての幸福とは何なのか、その人に何をしてあげられるのかをとことん考つくし、実行することまで含めて―である。(これは容易なことではないが)

 そう考えてから、私は諸々のことの関係がはっきり見えてきた。今までバラバラであった考えがきれいに結び付けられ整理されてきたのだ。


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