What we want ―― 悩める日々


 人は何のために生きるのだろうか。誰でも一度はそういうことを考えるのではなかろうか。私も昔―高校時代であったが―この疑間にとりつかれて、ずいぶん頭を悩ました記憶がある。

 『人間はただ生きるためにのみ、この世に生まれてきたのではないはずだ、生きるからには何らかの目的がなくてはならぬ。私はこれから何を目標に生きて行けばいいのか。私は何のために生きて行けばいいのか……。』

 それから長い模索の時代が始まつた。

 いかに生きるか―という、いうなれば生活信条といつたようなものならばその候補には事欠かなかった。よく言われる「人様にだけは迷惑をかけないように生きて行きなさい。」とか、「人のふり見てわがふり直せ。」とか、また「人はただ生きるだけが大切なのではない。良く生きることが大切なのだ、」というアリストテレスの言葉などは、それなりに納得のできるものであつた。

 だが、「迷惑をかけなければいい」というのはあまりにも消極的すぎるようだし、「良く生きる」といっても、「それではどうすることが良く生きることなのか」という新たな疑間が生まれてきて、それに対する明解な答え(具体的な行動の指針)はなかなか頭には浮かんでこなかった。

 そういった言葉は「ことわざ、名言集」などの本を開けば山ほど載っており、それぞれになるほどと思わせる真理が含まれているのではあるが、それらをすべて記憶して、その場その場に応じて臨機応変に適用するなど、とてもできそうには思われなかったし、ときには矛盾する内容もあったりして、何を信じていいのかますますわからなくなったりする。それらの言葉の共通項を見つけだそうと、抽象化して統合してみようと試みてもみたが、無駄だった。だいいち、そういった言葉を信条とするにしても、「それがすべてだ」という確信が持てなくてはどうも心もとない。「これが絶対だ」という確実な根拠を私は欲していたのだった。


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