エゴの肯定


 自らのエゴに気付くことは人間必ず通過しなくてはならない関門だと思うが、あらためて今度はそのエゴを肯定しなくてはならないような日がやってくるとは何と皮肉なことだろう。

 私は自らのエゴに気付いてそれを徹底的に弾劾したがために、今度は自己喪失に陥ってしまったのである。それは一種の分裂病といってもいい。つまり、かく生きねばならぬ―という観念と自己とが遊離してしまったのだ。自分がないような喪失感に捕らわれ、「私」が「私」でないような、もどかしい気持にさいなまれることになる。「人はどうしてあんなに生きようとする力が強いのだろうか。その原動力はいったい何なのだろう。」ということが不思議でならなかった。それほどまでに「生」への執着が稀薄になってしまったのである。ここまでくるとやはり病気といっても間違いない。

 そう思ったので、自分を分祈するために、たくさんの心理学書を読みあさった。分裂というのは何と何が分裂するのかというと、自己と観念が分裂するのである。自己とは、肉体に結びついた脳のなかでも間脳や延髄のような下位構造の部分であり、観念とは大脳にある意識や理性といった上位構造の部分である。

 普通、下位構造の部分は生きようとする基本的欲求を発し、上位構造の部分がその欲求と環境との調和を図るベく機能するわけだが、エゴの否定が徹底すると上位構造が下位構造から遊離し、間にギヤッブを作ってしまう。つまり言葉の上での自分と本当の自分が別物になってしまう。すると諭理が空回りを始め、「自己」との一体感を感じなくなってしまう。この満たされない思いは苦痛を伴うようになるのである。

 これを治療するには、肉体で環境にぶつかってゆくこと(運動)とともに、観念を自己化するという一種の業によるしかない。修業僧が滝に打たれたりするのも同じような意味あいではなかろうか。

 ともかくこれは大変なトレーニングであることは間違いないが、私はなんとか医者にもかからずに、自己に帰ることができたのであつた。


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