愛されるということ


 誰でも、まわりの人に愛されたいという気持(被愛欲求)を持っている。なぜなら、人が自分のことを思ってくれれば何事につけ、自分に有利に事が運ぶからである。したがってこうした気持(被愛欲求)はエゴがら生まれたものということができる。誰でも多かれ少なかれ持っている欲求なわけだがこれが自己目的化してしまってはいけない。人に好かれようとしてやったことは、おおむね報われることがなく、むなしいものである。人のためになることをひたすらするという姿勢で生きていれば、おのずから人にも好かれるものなのである。

 いわゆる「受けをねらう」というのは、サービス精神でやっている内は良いが、それがこうじて「婿び、ヘつらい」になってしまうと、みじめである。大宰治はその典型といっていい。

 道化師にはどこか、哀れっぽさを感じるものだがそれもこうした連想からであろう。もっとも現実のピエロはもっとしたたかな存在だと思うが……


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