芸術について


 芸術は一見何の役にもたたないもののように見える。しかし非常に価値あるものとして評価されているのは周知の事実である。なぜ芸術がかように評価されるのかは実に興味深い課題だが、そのことは別の機会に譲るとして、どういう芸術が評価されるのか―ということについて、私見を述べてみたい。

 わたしが芸術をどういう基準で評価するかというと、それはひとことで言って「情報量」なのである。これはなにも最初から理論があって、それに基づいて評価するというのではないから、決定的な根拠があるわけではない。ただ私が今まで観たり聴いたりしたもののなかで、いいと思ったものはどういうものかということを考えてふと気付いたことであるにすぎない。

 まず情報というものをどう捉らえるかだが、これはコンピュータの理論が大いに参考になる。御承知のとおり、情報はすべて1か0かという最低の単位(ビット)で表現される。文字も映像も音もである。もちろんそれには約束事が必要だ。10110001が「ア」を表すというように。そしてすべての情報(音、映像、文字その他すべての)はこの約束事の積み重ねで表現できるという点が重要なのである。音楽も絵画も文学もである。

 この理論を単純に応用するととんでもない結論がでてくる。1文字が8ビットに対応するとすれば、あらゆる文学作品もこの1と0の羅列に変換されるが、その量はまさに字数に比例する。すると文学作品は長ければ価値があるということになってしまう。また、絵画にしても、たくさんの画素に分解し、それぞれの色を三原色に分解したときの輝度を数字に変換すれば、あらゆる映像も1か0かで表現できるが、そのときの情報量は画面の大きさに比例することは明らかで、絵は大きければ大きいだけ価値があるということになってしまう。これらの考えかたはある程度該当する面もあるのだけれども、あまりにも片手落ちな判断といわねばなるまい。ではいったい芸術の情報量をどうやって計るというのか。

 まず音楽から考えてみたい。音楽は時間の芸術であって、その本質は主題と変奏にある―とおおざっぱには言えると思う。だがここではもうすこし詳しく観てゆくことにしよう。まず音には三つの自由度がある。大きさ、高さ、音色である。ただし音色はこの中にも実にたくさんの自由度を持っている。基音とその倍音の大きさ、およびその時間的変化や位相によってほとんど無限のバラエティが可能なのだ。これはシンセサイザーの普及でかなりイメージしやすくなったことと思う。次に音の高さの変化つまりメロデイがある。これも音符の長さの組合わせは無限に近くある。次にいくつかの異なる楽器(音色)の組合わせがある。それらの旋律の関係のしかたがある。リフレインがある。変奏がある。和音がある。コード進行の妙がある。歌なら歌詞の内容がある。歌いかた(こぶしや発声法)の違いがある。歌手の性格が表れる。時代精神の象徴がある……というようにたったひとつの曲にもさまざまなレベルの情報が階層をなしてたたみ込まれているのである。それらの情報をどのようにすれば正確に数値化することができるかはこれからの課題だろうが、それらの情報すべてを足し合わせたものが、その曲の価値を判断する規準になるというのが私の考えていることである。

 その評価は人によっても違うし、多様なものを単純にたし合わせることは難しいかもしれないが、おおざっぱにこういうことは言える。単純なものより、複雑なもののほうが価値がある。一度聴いてもわからない複雑なもの、それでいてデタラメではなく、内に秘められた規則性がある――そんな曲こそ飽きないいい曲だと思う。それで私はバッハをこよなく愛すのである。また、レッドツェッペリンのStairway To Heaven などもすばらしいと思う。

 次に絵画ではどうか。いい絵とはどんな絵だろうか。まずいえることはいいかげんな描きかたをしたものはだめだという点だ。雑に描かれたものはまず文句なしにボツにしたい。よく観光地のみやげ物屋に油で描いた風景画がある。一応手慣れたタツチで描かれているが、どうも感興を催さない。なぜか。適当に手抜きして描かれているからである。時間を惜しんでサッサと仕上げてしまおうという態度が見え見えだからである。もう少しじっくり丁寧に描けばいいのにと思うのは私ばかりではあるまい。

 そういう点で、ラファエル前派の細密画などはすばらしい。実に細かい所まで丁寧に神経を配って描いている。印象派はどうか。色を分解できるという発想の新鮮さが新たな価値として評価できるが、それによって失った情報量を考えると手放しでは評価できない。(画素が大きくなってしまうから)

 現代画ではどうか。これはあまりに多様多枝にわたるので、一概には言えないが、ひとつ言えるのは偶然性に頼ったものはダメだということだ。画家は完全にキャンバスを支配しているのでなくてはならない。一枚の画用紙をカッターで切り裂いて芸術でございというのがあったが、単に今迄のジャンルをはみ出しただけの新鮮さという価値はその場限りのもので、所詮永遠性は持ち得ないものである。

 水墨画はどうか。一見単純で偶然性に任せたように見える山水画だが、真に見応えのあるものは決してそんなものではない。計算し尽くされた構図と失敗の赦されぬ緊張感から生まれるものはそう簡単に再現できるものではない。またそれ以上の精神性まで考えると、これはやはり至高の価値を認めたくなる。

 以上、情報量という観点から芸術を見てみたが、いかがなものであろうか。『規則性があってなおかつ重層的に複雑な情報を持ったもの』に美は存するというのが私の考えだ。


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