進歩とは何か


 進歩を二つに分ける。個人の進歩と社会の進歩である。個人の進歩とはほとんど能力の拡大とイコールである。ここでは社会の進歩について考えてみたい。

 「人類の進歩と調和」が万博の標語になるくらいだから、進歩がプラスの価値を認められていることは明らかである。では人類の進歩とは何か。それは自由の拡大だといって大きなまちがいはないと思う。人間が「できること」のマスをいかに広く大きくするか、これは人類の幸福に大きく関わってくることだから、我々が求めるのも当然である。

 そのために人類は何をしてきたか。歴史的に観ると主に二つあることがわかる。社会制度の確立と科学技術の開発である。

 社会制度の確立はどのようにしてなされて来たか。原始共産制から絶対王政、封建制からブルジョワ革命、市民革命を経て民主制へと移り変わってきた。なぜであろうか。これは「いかに多くの人の幸福を実現するか」というマスの拡大の歴史なのである。当然これからもこの幸福の迫求は続けられるにちがいない。そしてその究極の目標はすべての人があらゆる苦痛から解放され、幸福に暮らすことができる社会の実現にあることは論をまたない。

 ところで現在、これだけ多くの人が、まがりなりにも文化的生活を送れるようになったのはなぜであろうか。それはまさに生産手段の飛躍的進歩によるのである。原始時代、人類は狩猟をして食糧を手に入れた。動物とさして違うところはなかったのである。やがて農耕を発明し、これで安定した食糧の確保ができるようになった。それに伴って社会が生まれ、制度ができるようになる。強い者が弱い者を支配するのは動物界の掟となんら変わらない。しかし18世紀になって人類にとって飛躍的な転機が訪れる。産業革命である。今まで人手に頼っていた生産手段が機械によってできるようになったのである。現在我々がこれだけの生活ができるようになった源はまさに産業革命のおかげなのであって、その重要性はいくら強調してもしすぎることはない。その後市民革命までの発展はいわばこの時点で約束されていたといってもいい。

 そうして歴史を概観すると、社会の進歩を確実に推進してきたのは、思想ではなく、科学技術なのだということがわかるのである。したがってこれからも技術開発は限りなく進むであろうし、それによって少なくとも物質的には何ら不自由することのない社会が実現するにちがいない。

 ところでこの進歩が人間そのものをも「進歩」させていくかというと、とんでもないのであって、人間は平安時代も、あるいはクロマニヨン人もさして変わってはいないのである。仮にタイムマシンがあるとして、2千年前に生まれた赤ん坊を現代に達れてきて育てたとしても、現代人とほとんど変わらぬ大人に成長することだろう。また「枕草紙」など読めば、人間の知的文化的レベルがいかに変わらぬものかよくわかると思う。もっともそれだけの文化レベルを保持できる人の数(マス)は比較にならないほど多くなっている。平安時代にはほんのひと握りの貴族しか持てなかったものを、現代ではほとんどの人が持てるのであるから(持てる可能性があると言うべきか)。これは社会の進歩の賜であって、それだけ人類が幸福になったということである。


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