幸福へのアプローチ


 幸福を得るのに二つの道がある。物理的な方法と精神的な方法である。夏の暑さがこたえる時、クーラーを買ってきて据え付けるのは物理的な解決法だが、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」という境地に達しようというのが精神的な解決法である。あるいは「そんなばかなことができるわけがない」と思われる人もいるかもしれないが、これは真理であって、唯物論的にも(生理学的にも)確かなことなのである。ただこれには「修行」が必要であって、誰でも簡単にというわけにはいかない。

 こで注意しておきたいことは、この二つの方法は簡単に優劣をつけられるものではないということだ。どちらも有用な方法であって、たまたま上の例では前者のほうがはるかにたやすく目的(=幸福になること)を達成できるので、わざわざ修行をしようという人はいないだけのことである。

 前者のいき方が西欧合理主義的方法、後者が東洋精神主義的方法である。おおむね現代の社会は前者の方法が幅をきかせている。それは科学的合理主義の成果であり、そこには「およそ人間が欲したもので実現しないものなどない」という期待が暗々裡に含まれている。「なせばなる」というわけである。そしてこれもまた真実である。実際そうして我々は現代社会を築いてきたのだし、これからもその期待なしには生きてゆくことは不可能に近い。なぜならそれは「現在より明日のほうが幸福になるにちがいない」という「夢」とイコールなのだから。

 ところで最近この西欧合理主義的方法では真の幸福に至ることは不可能なのではないかという危惧が叫ばれるようになった。特に西洋でそれは著しいようだ。文明の生んださまざまな矛盾がこの西欧合理生義のいきづまりを示唆するように感じられてきたのである。それで東洋思想への関心がとみに高まってきているとのことである。これはもっともなことであって、さきに示した二つのアプローチのしかたは互いに相反するものではなく、両方とも有用な方法なのだという認識に達すべきなのである。さいわい我々日本人はそこへの最短距離にいるということができる。といって誰でも簡単にこの二つの方法が自分のものになるかというと、そうではない。さきにもいったように、精神的方法には哲学が必要だし、そのためには明晰な認識力と「修行」(=トレーニング=自己化)が必要だからである。現代人はあまりにも西欧合理主義になじんでしまったので、この東洋的方法はほとんど忘れられてしまっているのである。

 さて、夏の暑さをがまんすることくらいならいざしらず、果たしてこの東洋的方法はオールマイティだと言えるのであろうか。精神的方法とはどんな方法なのであろうか。月並ないいかたをすればそれは単に「気の持ちよう」ということである。なあんだ、くだらないなどといわないで欲しい。この「気」を「どう持つか」ということが哲学なのだから。

 さきに私は「幸福はVに存する」といった。つまり「前よりもより欲求が満たされた状態」になったとき幸福を感じるのである。だから今よりもより「幸福な状態」をめざして努力するというのが西欧的発想なのだが、ここで「前よりも」といった―つまり幸福は相対的なものなのだという点に着目して欲しい。前と今との「差」が問題なのだ。あるいは、他人と比較して自分は不幸だ―と思う人もいよう。これも他人と自分との差を気にしているのである。そう、比較の基準が問題なのだ。そこからこういう結論が出てくる。『基準を最低の所に置けば、すべてのことはプラスに感じられるはずだ』(!)これが鍵である。

 自分より不幸な人はいくらでもいる、こうして生きていられるだけでも私は幸福なのだ―とそう思えたとしたら……。


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