宗教に対する態度


 日本人は、よく無宗教だといわれる。私もいわゆる無宗教な人間であるが、これでまずいとは全然思っていない。

 外国人からは、この特性はだいぶ奇妙に思われているようだが、決しておかしなことではなく、これからの世界にあっては、そうあるべき姿を示しているとさえ言えるのだ。

 私は宗教を否定しようというのではない。

 宗教にもいい所がある。宗教はもともと人を幸福に導くことを目的とするものなのだから、宗教を信じることでその人が幸福になれたとしたら、あるいはその人の苦しみが除かれたのだとしたら、それは立派な存在価値がある。

 だが、私が宗教を信じる気になれないのは次の点が気に入らないからであ。つまり、ある人がある宗教を信心して救われたとしよう。するとその人はその宗教を他人にも勧めようとする。救われた幸福を他人にも分かち与えようとするその気持ちは、解らぬではないが、他人にとっては有り難迷惑であることがしばしばである。いわゆる『愛情の押し売り』というやつだ。

 彼にとっては唯一絶対、至高の価値に思えても他人にとっては、必ずしもそうではないのである。つまり、分を弁えていない。彼にとっては「全て」であっても、それはあくまでも「彼にとって」であって、万人に通用するとは限らないのだ―ということを弁えていないことが問題なのだ。

 これは、個人主義の立場だが、宗教にはもともと「全て」であろうとする性向があるために問題を厄介にしている。

 「全ての人々の幸福を実現するのが人類の究極の目的」であり、宗教もまたそのために存在しているわけたが、世界観あるいは人間観、philosophyといったものは、あくまでも主体的に選び取ったものでなくては、その本旨にもとることになるはずである。そういった意味で『求めよ、さらば与えられん』と言ったキリストの言葉はこの立場を的確に表現した矛盾のないものということができよう。

 こんなことを言うとキリスト教を推薦しているように取られるかもしれないがそういうつもりはない。キリストは偉大な人間であった。だがキリストとなった時点でキリストの「教え」は曲解されてしまった。キリストは『汝自らを愛す如く汝の隣人を愛せ』と言い、自らそれを実践したに過ぎない。それは正に人間としてあるべき理想の生きかたであった。だが、そういう人物がいた―というだけでいいのだ。それだけで自己完結した完全な世界を形づくっているのだ。

 宗教には布教がつきものだが布教とは集団のエゴの伸張に過ぎない。そのために宗教戦争などという矛盾したことをしでかすのである。

 ではいったい我々は何を拠り所にしてゆけばいいのであろうか? それは実証主義―唯物論的世界観―生物学的人間観―すべての人の幸福の実現という理想観―ということになろう。


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