幸福論


 人類の目的が「すべての人々の幸福の実現」であることがわかっても、「幸福とは何なのか」、あるいは「どうすれば幸福になれるのか」がわからなければ具体的に何をすればいいのかという行動の指針が出てこない。ここでは幸福について考えてみたい。

 まず言えることは「幸福はVに存する」ということである。Vとは物理学で言うところのベクトル、すなわち「動き」である。人はさまざまな欲求を持つ。寝たい、食べたい、飲みたいから始まって、愛する人と一緒になりたい、旅行したい、映画を観たい、音楽を聴きたい、絵を描きたい、美しい服を着たい、世に認められたい等、挙げてゆけばきりがないくらい様々な欲求を人は抱く。そして、それらの欲求が満たされた時、「幸福だ」と感じるのである。ここで注意しなくてはならないのは、「欲求が充足した状態」が幸福なのではなくて、「欲求が充足する過程」に幸福があるのだということである。1000万円の宝くじが当たったとしよう。番号を調べて当たったことがわかった瞬間、そして現金を受け取りに行く過程は幸福感でいっぱいだろう。だが銀行に1000万円入れた状態はさほど幸福感があるとは思えない。あるとすれば、その金を使うことができるという未来の行為を想像してのことであって、金を持っているという状態によるものではないはずだ。なぜなら金などいくら持っていようと、使わない限り紙屑同然なのだから。

 また、人は自由でありたいと願うものだが、与えられた自由など空気のようなもので、それによって幸福だなどとは誰も感じないはずだ。自由を束縛されていた人が自由を獲得した時にこそ最大の幸福があるのではなかろうか。

 腹いっぱいの状態が幸福なのではなく、空腹を満たした時が幸福なので……以下同じことなので省略するがこれで「幸福はVに存する」という意味は理解いただけたことと思う。

 つぎに「人間にはどんな幸福があるか」、言い換えれば「どんな欲求が存在するか」という点に焦点は移ってくるのだが、これは個人によって千差万別なので一概には言えないが、ひとつ言えることは、いくつかの基本的な欲求を除いて、自分にとって本当に幸福感を得られるような欲求をみつけ出すのは意外と難しいことなのだということである。ある意味では人類の歴史はこの幸福の発見の歴史だといってもいいだろう。そのなかから自分の幸福を探り当て、あるいは新たな幸福を発見することは、やはり個人が不断の努力を重ねるしかないのだろう。なぜなら幸福は与えられるものではなく、主体的に選び取ってゆくものだからである。Vは心のベクトルなのである。


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