性善説と性悪説


 「人間の本性は善か悪か」とは昔から多くの哲学者が論じてきた根本的な問題なわけだがこの論議に対する私の考えを明らかにしたい。

 まず善とは何か、悪とは何か、その定義からしておかなければならないだろう。人間は『より多くの人々の幸福に寄与するものを善と感じ、より多くの人々の幸福に逆行するものを悪と感じる』のである。なぜなら「すべての人々の幸福を実現することが、人類共通の理想」だからである。このことを明確に意識している人は少ないようだが人はすべてこの目標に向かって生きているのであり、この目標を否定できる人はいないはずなのである。

 さて「人間の本性は」と問うているとき、その意味していることは「人間がすべての殻を脱ぎ捨てて(制約を取り払って)、自分を詐らずに行動するとき、どういう行動に及ぶか」ということを問うているのだと考えてさしつかえあるまい。つまり極限状況に置かれた時、人はどんな行動に及ぶかだが、よく引きあいに出される例に人肉食の話がある。冬山で遭難した人が生き延びるためにやむなく凍死した友の肉を食べて飢えをしのいだ。これは多いにありそうな事である。だから人間の本性は悪だというのだが、これはそう決めつけるわけにはゆかない。

 環境が異なれば、善悪の価値規準も変わるのである。この場合、日常社会の道徳観に縛られて飢え死にするより、ひとりでも生き延びたほうが、人類の目的にかなっていることは明白であり、全く悪いこととはいえない。

 つまり、人間の中心にあるのはエゴであり、それは生きようとする欲求であるわけだから当然『善』とされなくてはならない。生きることを否定しては、人間の存在はありえないわけだから。自分の幸福を追求することもまた、神に求められていることなのである。しかし、お互いの利益が衝突する場面ではそれが悪として表れる場合もあるというだけのことである。


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