資本主義と共産主義


以下の文章は、共産主義が崩壊した現在となってはもうどうでもいいことのようにも思えるが、当時(もう10年以上前になる)私が考えていたことをそのまま書き留めておこうと思う。


 政治の問題を考えるとき、体制のことを無視することはできない。資本主義と共産主義のどちらがより「人類の目的」にかなった体制か考えておくことは、意味があることであろう。

 まず、それが実現するならば、というカッコ付きではあるが、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産主義のほうが、「必要に応じて働き、働き(能力)に応じて受け取る」という資本主義より理想に近いのは明らかである。なにしろ「必要に応じて受け取る」わけだから、欲しいものは何でも手に入るのだから。だがその欲しい物を誰が生産するのかというと、その能力を持った人がその献身的奉仕の精神(愛)によって生産するわけだが、はたしてそれだけで需要のすべてをまかなえるものだろうか。マルクスは生産手段の科学的発展により、それは実現すると考えたようだが今日の日本を見てもわかるように、これだけテクノロジーの進展をみても、なおほとんどの人は朝から晩まであくせく働かなくては立ちゆかない現状を考えると、なかなかこれは実現しそうもないように思われる。

 また生産にかかる意欲を全く愛に依存するというのも、現実には不可能のようで、ノルマを課したり、一部歩合制を導入したりせざるを得ないというのが実態のようだ。

 だがそうした点を割引いても、衣食住にかかる費用が極端に安いということは、理想にかなり近いわけで大きく評価しなくてはならない。

 一方、資本主義社会に於いては、エゴを愛に転嫁する実に巧みなシステムが働いているということができる。つまり「働かなくては食ってゆけない」というシステムである。これは弱者にとっては非常に苛酷なシステムといわなければならないが、労働(生産)意欲をかきたてるには好都合である。また競争原理は技術や効率の飛躍的発展を促した。だがこれは資本の再生産へと人間を永久に駆り立て続けることになり、果たしてそれが人間の幸福とイコールで結ぴ付けられるものか否かは疑問である。企業の目的が利潤の追求であるかぎり、資本はひとり歩きを始めるものだからである。今までは、資本の拡大のおこぼれを人々が受け取るようにして、全体的に豊かになってきたが、生産手段の技術革新(合理化)によって、首切りがおこなわれるかぎり、人類の目的に逆行した資本のひとり歩きが始まるのは目に見えている。

 極端なことを考えてみると、ここに例えば全く無人であらゆる商品を生産できる工場が完成したとしよう。するとこの工場の利益は誰が享受するのであろうか。会社の資本だけが肥え太ったのでは消費者はいつか無一文になってしまうだろう。この会社はビルの屋上から金をばらまきでもしないかぎり、誰もできた製品を買えなくなってしまうだろう。おそらく最も良い解決法は、国が利潤のほとんどを税金として徴収し、国民に還元するようなシステムを造ることだろう。これは結果的にマルクスが予言した企業の国営化なのだろうが、それはまだまだ先のことのようである。

 日本は、エコノミックアニマルなどと陰口をたたかれながらも、技術革新によって良い品物をより安く生産することを追求してきた。この日本のとってきた道は「より多くの人々に幸福をもたらす」という意味で正しい道だったのだ。これには多いに自信を持っていいと思う。


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