自然と人間


 私が中学三年生の頃であった。当事日本は高度経済成長のさなかにあり、急激な工業の発展に伴って発生した公害問題が大きくクローズアップされてきた時だった。公害問題の発生は、科学技術の発展が、限りない幸福に我々を導いてくれるに違いないという期待が幻想に過ぎないのではないか、ということを示唆する最初の出来事だった。このまま大気汚染が続けば、人間が生存できる環境はあと何年もつのだろう? と誰もが不安を感じていた。マスコミでも盛んにそのことを取り上げ、日本や地球の将来を論じていた。その危機感は私にも自然について深く考えさせることになった。

 当時、私は食物連鎖のことを知っていたので、自然がいかに巧くできているかということについて、畏敬の念にとらわれていて、それはほとんど信仰といってもいいような思いを懐いていた。それに比べて人間はなんと不完全な生き物なのだろう…人間も所詮この偉大な自然のひと駒に過ぎないのだ…とそんな風に、自然を第一義に考えるようになっていた。人間とて、この自然界の法則によって造られた偶然の産物に過ぎないのだ。神の目からみれば人間など、そこらに落っこってる石ころと別に変わりはないのだ。人間が生きることも、死ぬことも、自然にとっては全く同値のことなのだ…というのが当時の私の人間観であった。だから、もし誰かが「おまえの命をいただきたい。」と言ったら、全く抵抗することもなく殺されるだろう…と公言して憚からなかった。「では、どうして現在生きているのか。」と聞かれたら「たまたまこうして生きているし、わざわざ死ぬという行為に及ぶ必然性を感じないからさ。」と答えただろう。だから当時の私は相当の変わり者と見られていたに違いない。

 だが、考えてみると、この世界観は、仏教における悟りの境地と同じことなのではないかという気もする。自然のレベルに身を置くことによって、生に対する執着を離れるわけだから。

 ともかく、当時の私は、いつ死んでも同じこと…という思いから、この世界がどうなってゆくのかを見届ける観察者として自分を位置付けていたのであった。


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