Acta7日本語版はどうしてできたか?


 私が初めてActaに出会ったのは1990年でした。雑誌などで、アイデアプロセッサという言葉を見て、「そんな魔法のようなソフトが存在するはずがない」と思いながら、「でもちょっと試してみたいな」という気持ちがあったのを記憶しています。

 そのころ、私の家の近くに「企画室ゆう」というMac専門店ができました。ここでActaAdvantageというパッケージを手にとったのがそもそもの始まりでした。

 さほど高いソフトでもないし、「ちょっと試してみるのもいいか」という軽い気持ちで買ってみたのですが、これが私の人生に大きな変化をもたらしたのでした。

 当時Actaは英語版しかなく、メニューもダイアログもマニュアルもすべて英語でした。しかし、そのインターフェイスが洗練されているおかげで、何の苦もなく使い方は修得することができました。と同時に、「なんでこんな素晴らしいものがあるのに、みんな使わないのだろう?」と不思議に思いました。しかし考えてみれば、私だってそう期待して買ったわけではなかったのです。日本語版でないということで、かなり敷居が高かったのも確かです。私は昔から英語が苦手で、メニューも日本語にした方が使いやすいので、ResEditで意味の解るところから日本語にしてゆきました。幸いなことに、Macは文字だけがリソースとして別に存在するので、ソースコードがなくても日本語化ができるのです。

 そして、メニューやダイアログ、アラートなど、ほとんどの部分はResEditだけで日本語化できたのですが、ウインドウメニューの変更があったファイルに付くチェックマークが半角片仮名の「ラ」になってしまうのと、ラベル記号が1バイトで切り分けられてしまうために2バイト文字が使えないという点だけは日本語版というには不完全でした。これはプログラム本体を書き換えなくては直らないのです。

 そこで、せっかくここまでやったのだから完全な日本語化に取り組もう!と一大決心をして、コードリソースにパッチを当てることにしました。「ラ」のほうは簡単に解決しました。該当する1バイト($D7)を探して($13)に書き換えるだけですから。

 ラベル記号の方は大変でした。逆アセンブラで該当するコードを探し、どの命令が何をしているのかを解析し、2バイトずつ切り分けるようにハンドアセンブルで直すのですから、自分で言うのも何ですが、これはまさに神業と言ってもいいものでした。これがうまくいった時は本当に天にも昇ったような気持ちだったのを覚えています。

 (その後、Acta7になったときには、1バイトフォントでも2バイトフォントでも自動的に判別して各世代に割り当てることができるようになりましたから、このパッチは使われなかったわけですが、同梱されていたDA版のActaはこのパッチを施したものでした。)

 そしてしばらく使っている内に、これだけ完璧な日本語版ができたのだから、私一人のものにしておくのは惜しいと思うようになりました。そこで、できた日本語版のフロッピーをアメリカのSymmetry社に送りました。英語で手紙を書くのは初めてだったので、ずいぶん苦労したものです。1991年2月のことでした。

 そのころ、日本ポラロイド社はSymmetry社とActaの日本での販売代理店契約を交わしていたようです。それで、私は日本ポラロイド社とローカライズの契約をすることになりました。

 しかし、日本語版を出すとなると、マニュアルも日本語化しなくてはなりません。さすがに私もこれには一大決心が必要でした。マニュアルをすべて翻訳するというのはかなり大変なことです。しかし、完璧な翻訳をするにはそのソフトを熟知している人でなければだめだし、何よりもActaの素晴らしさを一人でも多くの人々に伝えたいという思いが私をつき動かしました。

 この、マニュアルの作成にもActaは役に立ちました。Actaはマニュアルを作るのにも、読むのにも最適のソフトだったのです。

 そして、マニュアルも完成し、いよいよ発売になるかとわくわくしていたところへ、思わぬブレーキがかかってしまいました。System7の発表です。それにともなって、ActaAdvantageもSystem7の新しい機能を生かしたニューバージョンActa7にすることになったのです。

 アメリカではすでにSystem7が発表されましたが、日本語版が出るのは1年ぐらい後になるだろうと思われていましたから、私はActaAdvantageのままでも日本語版を早く出した方がいいと思ったのですが、ポラロイド社の方針で、最初からActa7の日本語版を出すことになってしまいました。

 これには様々な困難がありました。一番大きな問題は Publish&SubscribeとEdition の訳が確定していなかったことです。これは編集メニューやダイアログに現れる言葉なので、どうしても日本語にする必要があるのですが、もちろんまだ漢字Talk7は出ていないし、訳語についてのガイドラインも出ていませんでした。直訳すれば「出版」「引用」「出版物」となりますが、「引用」はぴったりでも、「出版」「出版物」というのは大げさすぎてどうしても訳語としては納得できませんでした。

 そこでしかたなく、この機能を表すもっと適当な言葉はないかと考えた末、とりあえず「送信」「受信」「連結文書」という言葉にすることにしました。ネットワークにつながった複数のMacどうしでダイナミックにデータをリンクできるのだから、さほどおかしな訳ではないと思いました。

 これは現在では「発行」「引用」「発行物」となっています。これは名訳です。さすがにアップルだと感心いたしました。後のバージョンアップでActa7ももちろんこの訳語に合わせました。

 もう一つの問題はバルーンヘルプです。System7の目玉の一つがこれでした。英語版ではGenevaの9ポイントでヘルプが表示されるのですが、日本語版ではどうなるのか決まっていませんでした。Osakaの9ポイントというのは字が小さすぎて読めるかどうか怪しいものでした。(実際にはOsakaの10ポイントになったので、良かったと思います。)また、このリソースのテンプレートがまだなくてResEditで文字だけ日本語にしても正しくメニューに対応しないという問題がありました。そこで、このリソースのデータ構造を16進エディタで解析しなければなりませんでした。当時Inside MacintoshのVolume6は英語版しかなく、全貌を理解するのにはかなり苦労しました。

 さらに、フォントチェンジの問題もありました。System7になってからスクリプトという概念ができて、日本語と英語を切り替えるとフォントが変わるようになってしまったのです。日本語をOsakaフォントで書いていても、英語にするとGenevaになってしまうのです。現在はOsakaフォントそのものが半角英字をGenevaと同じにしてあるので何の問題もないのですが、当時は非常に奇妙に見えました。また、さらに厄介な問題はOsakaの半角アルファベットを入力する手だてがなくなってしまうということでした。フォントメニューからOsakaを選べば全角文字になり、コマンド+スペースで英語にすればGenevaになってしまうのですから。これも現在はインプットメソッドの中で日本語フォントの半角文字を指定できるようになっているので、何の問題もないのですが、当時のFEPではこれができないか、できても使いにくいインターフェイスのため、ほとんどのユーザーがコマンド+スペースで日本語と英語を切り替えていたのです。

 しかし、まるで運命の女神が私のためにプレゼントしてくれたのではないかと思えるようなこともありました。GomTalkの存在です。なかなか日本語化されないSystem7を待ちきれなかったパワーユーザーの一人五明正史さんがパッチを当てることで、日本語が使えるようにしてくれたのです。このGomTalkのおかげでActa7の日本語版が漢字Talk7を待たずにローカライズできたのです。本当に五明さんには感謝しています。

 そして1992年2月ついにActa7日本語版が発売されました。


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