丸木俊の語るアトリエ村の生活

 どことなくちょっと外国の香りがして、芸術家風に怠惰な片鱗もあるものたちに仕事はなかなかありませんでした。でも、一日として、絵を休むわけにはいかないのです。なんのために、誰のために、絵を描くのでしょう。誰も買わない、誰も喜ばない、そんな絵を毎日毎日描いていました。財布に一銭もなくなり、米櫃に一粒の米もなくなった日がつづいたりしました。それでも二人はいっそう意地になって描きました。そうして描きためた作品を、年に一度ずつ展覧会を開いて発表しました。
(中略)
 位里は自分で描いた絵を自分で全部表装しました。近所の人から荷車を借りました。作品を積み、早起きして、引っ張っていきました。位里が引いて、わたしがあと押し、わたしが引いて位里があと押し、椎名町から銀座の青樹社画廊に向かいます。飾り付けを終わって。空になった車を引いて帰ると、夜の11時ごろです。翌朝早起きして、絵かきらしく身づくろいをして会場へ向かいます。売れもせず、人も来ず、静かな展覧会が終わりました。
 二人はまた空の荷車を引いていき、作品を積んでアトリエまで引いて帰るのでした。汗が身体じゅうからしぼるように流れます。汗が目に沁みて、むこうが見えなくなりました。(丸木俊『女絵かきの誕生』朝日新聞社・1977より)



また丸木位里はさる展覧会の図録に次のような一文を寄せている

 猫のこと

 ねずみの多いのには弱つた。
 何とかして猫を一匹手に入れたいと思った。しかしさう簡単に猫の子も、もらへなかつた。弱つてゐたら、友人が貸してやらうといふ。
 外側の戸をぴつたりしめて、出られないやうにして置いた。
 椅子の上で、うづくまつたまま、一晩中ぢつとしてゐたらしい。あくる朝、うつかり、戸を開けたら、矢のやうに飛び出してわきめもふらず帰つてしまつた。


(どちらも、宇佐見承『池袋モンパルナス』集英社からの引用です)